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2002/06/01 [土]   

■麦人と文人を職場に連れて行った。迷惑なのは百も承知だが致し方なく。

 文人の通う保育園が、6月から神戸市の認可園となる。それまでは無認可園で保育料も高かったが、認可園になると月額2万円以上安くなるので実に助かる。が、認可園移行準備のために今日は臨時休園になったのである。阿久沢も仕事だし、ジジババは神奈川だし。
 金曜日は1週間の中で授業時間が最も短い日なので、授業している間だけ関西文理の講師室でおとなしくしてもらうことにする。お菓子やおもちゃ、絵本をセットして、申し訳なしと思いつつ教務課の許可をいただいて出発。

 なぜ文人だけではなく麦人も来たかと言えば、要するにズル休みである。だがこれは必要なズル休みなのだ。
 麦人の小学校入学以来の疲労が爆発した。阿久沢によれば、昨日の晩、「宿題多すぎる…」と半泣きになっていたので、「先生にはできませんでしたって言えばいいよ」とアドバイスしたら、「いや、全部やる」と歯を食いしばってやり遂げたそうだ。が、全部やり終えた後、ふとんに突っ伏して大泣きしてしまったらしい。
 予備校で文人の相手をさせるのにも都合がいいので、小学校には熱が出たことにして休ませて連れて行った。

 講師室にいた先生方、特にO先生にはかなり迷惑を掛けつつも、何とか俺の不在の間、壊滅的な騒ぎ方をすることはなく時間を過ごすことができたようである。麦人がやんちゃで、アリを池に沈めたり、ゴミ箱を頭から被ったりしていたと聞いた。

 「女は弱し、されど母は強し」などという。強いとか弱いとかはどうでもよく、また女=母に限った話でもないと思うが、親になると図太くなるのは間違いない。今日だって、職場に子供を連れて行くべきでないことは重々承知しているし、連れて行けば周囲に迷惑が掛かることも分かり切っていることだが、他にどうしようもないんだもん。ひたすら頭を下げまくってクリアするしかない。

■最近買ったCD
ジェロニモ・レーベル『罰当たり幸福男』
(オムニバス)『HAPPY END PARADE』


2002/06/02 [日]   

■中学1年の夏から25年間、俺の耳底で鳴り響いていた歌のタイトルと歌い手が先ほど判明。坪田直子『ジングルジャングル』。インターネットは素晴らしい。奥の方にわだかまっていた鼻くそが根こそぎすっぽり取れた気分である。

■スイミングスクールで麦人が女の子のお尻を触ったと自己申告した。しかも水着の上から触ったらしい。自己申告したので厳しくは叱らなかったが、「女の子のお尻を触るときは許可を得てからにしろ。そうでないとセクハラで犯罪である」旨を重々言い聞かせる。
 「何で触ったの?」との問いには「ぷりぷりして気持ちよさそうだったから」。「どのくらい触ったんだ?」と突っ込むと、「べんべん叩いた。やめてーって言って逃げた」ととんでもないヤツである。「人の嫌がることはしてはいけない。お前だって知らない人からお尻を触られたらイヤだろう」と諭すが、「いや、俺はいいよ。俺はお尻触られるのが大好きだから」と言う。本来なら体罰ものだが、正直に全て話すので、今回は執行猶予だ。「お前がよくても、嫌がる人には絶対してはいけない」と繰り返し言うしかない。

 俺にも反省材料はある。赤ん坊の時から麦人の尻はまん丸で極度に感触が良く、ほっぺたも尻も同じようにふわふわだった。おむつ替えのたびにつるつる撫でていたのは事実である。物心付いてからも「お前の尻は気持ちいいなあ」とズボンの上からしょっちゅう撫でていた。尻のカーブが絶品なのだ。そのうちに麦人も「尻を触ってみろよ〜」と自分から尻を向けてくるようになってしまった。つまり麦人にとって、尻を触るのは愛情表現なのである。今日も全く悪気なく女の子のお尻を触ったに違いない。そう受け取らせてしまったのは確かに俺の責任なので、俺がきちんとさせなければいけないのである。

 阿久沢の尋問に対しては、「俺、彼女いないから」とか抜かしたらしい。ますますとんでもない。


2002/06/03 [月]   

■朝刊をつらつら見ていたら、パレスチナで邦人拘束との小さな見出し。なかなかやるもんだと思ってよく読んだら、友人であった。
http://www.asahi.com/international/update/0602/011.html

同じ寮の2年後輩。バイセクシュアルで、最近は性解放運動を熱心にやっていた。法学部だったか工学部だったか。俺と同様、学校にはほとんど通っていなかったから学部などどうでもよいのだ。

■「パレスチナのように人が必要とされている場所に行かなくてはならないと思う」という分かったような分からないコメントが載っている。おそらく彼のことだから、この300倍くらい言葉を連ねているはずだが、記事になるときに削られてしまったのだろう。怪我もないようだし、日本人を暗殺するほどイスラエルも無謀ではないだろうから、無事に強制送還されて来るんだろう。
 それにしても、31日から活動を始めて、次の日にはもうつかまったのか。それだけ厳しい状況なんだろうが、せっかくはるばる行ったならもう少し仕事してからのほうがよかったなあ>日比野

■やるなあ、日比野よ。君がパレスチナで必要とされていたように、俺もここで必要としてくれる人がいるからここにいるよ。俺も頑張るから君も頑張れ。カンパするぞよ。

■日比野真さんのサイトはここ。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hibino/Start.html


2002/06/04 [火]   

■三たびペットボトル関連。阿久沢悦子さんから情報をいただきました。

 8年ほど前、大阪市立の某中学校の生徒会が「水筒所持に関する自主規制」というのを作ったらしい。その名も『水筒17箇条』。憲法十七条や建武式目の条文数と一致するのは偶然か。

−−水筒17箇条−−

1.中味はお茶および水のみ
2.人にあげないもらわない
3.勝手に人の物を飲まない
4.休み時間または昼食時に飲む
5.登下校中に飲まない
6.自分のクラスで飲む
7.帰り道で捨てない
8.移動教室の場合は、水筒は持っていかない。(注意しにくいため。ただし体育の更衣場所のみ許可)
9.氷は入れてきてもよい
10.顧問の先生の許可を得た時間、場所で飲むこと
11.日曜、祝日、短縮、春・夏、冬休みにおいてのルールは試合など特例(顧問の先生の指示を受ける)をのぞいて基本ルールに
12.クラブ時の違反は部員全員が処分を受ける。なお男子***部、女子***部となっている部の処分は男女別に受ける。
13.ルールに違反した場合は、クラス(クラブ)全員の一週間禁止処分
14.違反者を見つけた者は常に注意すること
15.友達どうしでのかばいあいはやめること(特に重大な問題)
16.違反者が出た場合クラス(クラブ)で十分話し合った後、禁止処分に入る
17.学級代表と生活委員は特に注意する。

 水一つ飲むのも、こうなると一大イベントである。水筒一つにここまでエネルギーを裂く生徒会って、真の意味で青春の無駄遣いだ。こんなこと考えてるヒマがあれば、ドキドキしながら万引きの一つでもしたほうが有意義な人生を送れそうな気がする。12、13とかはほんとにイヤだなあ。この国に個人主義っていつ定着するんだろうか。
 15もすごい。友達同士でかばいあう。美しいじゃねーか。このやろう。(特に重大な問題)っすか?要するに、教壇の上から見えない場所ってのが怖くて仕方がないんだろう。M.フーコーのいう一望監視体制ってやつね。学校が理想とする形ってのは。

 だから、教壇の上から、職員室から、そして親からも見えない場所を作れ。子供たちよ。物理的にも気持ち的にも見えない場所を。
 こういう規範が幅を利かす学校とやらで求められる振る舞いは、友達同士で目を合わせてニヤニヤしながら、好きな場所で好きなように、水筒を取りかえっこしたりして飲むことなんだろう。馬鹿な規則に正面から抗議すると、こっちも馬鹿になるような気がする。


2002/06/05 [水]   

■今日読み終わった本
加藤典洋『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン)
→フィッシュマンズ『POKKA POKKA』の歌詞がタイトルになっているということで読まなければならぬと思った本。内容的には『日本の無思想』『敗戦後論』といった加藤の主著の復習のような短い文章を集めたもので、何か新しい発見があるわけではない。
 だが、前書きに次のような一節があって驚いた。
僕は、今回のできごと(註:2001年9月11日の対アメリカ攻撃)では二つの文章を書きました。一つは、…(中略)…もう一つはフィッシュマンズという、中心となった人物が死んでしまい、解散したバンドのことを、今回のテロの首謀者であるモハメド・アタに重ねて書いた音楽雑誌のコラムで、そこでは、彼らのアルバム『宇宙・日本・世田谷』の一番はじめの歌に出てくる「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」という言葉を、をタイトルに使っています。
 フィッシュマンズをモハメド・アタに重ねて?どんな文章だ?皆目見当も付かない。これは読みたい。どうしても読みたい。
 今回読んだこの本には収録されていないのである。「音楽雑誌のコラム」って、どの雑誌だ?

 あと、こんなところは考えさせられた。
どんなに大変でもどこかにわがままな部分を失わずにいること、「すべてが可能だったらどうしたいか」という遠大な希望を常に持っていることが大事だと思います。
 俺は音楽聴きながら散歩したり、阿久沢と映画を見に行ったり、子供を眺めながら昼寝したり、というくらいしか思いつかないけど。

■深夜ウォーキングで体長20センチくらいある巨大ムカデと擦れ違ってぞぞぞー。ぞわぞわと熱心に歩いていた。暑くて湿気が高いせいか、先月から大小合わせると3匹に出会っている。

■身体の調子が悪い。微熱と咳が抜けない。暑さのせいだ。ごく軽い気管支炎か肺炎を起こしているっぽい。今週中によくならなかったら病院へ行こう。


2002/06/07 [金]   

■暑いし風邪が治らないしで、仕事の帰りに目眩がするほど疲れを感じて、摂津本山駅前のスターバックスのソファに倒れ込んで15分ほど仮眠をとる。ここのソファは、脚を投げ出して頭を後ろに凭れさせておくと最高。ソファに身体が融けていくようである。スターバックスにはこの素晴らしいソファと店内禁煙の方針を堅持してほしい。だからこの間株を買った。

■俺の投資方針は「値下がりしても腹が立たない企業の株を買う」ことである。
 理財の才がないことは自覚しているので、株式の売買で儲けようということは最初からあまり考えていない。配当金と株主優待で普通預金の利息以上のものがもらえればそれでいいという考えだ。だから、いったん取得した株は、最低1年以上は動かさない。たまに新聞の株式欄を見て、買値から2割以上に上がっていたら売る。値下がりしすぎて、動かすに動かせなくなったのもある。でもその会社からは仕事をもらっているし、子供も世話になっているので、もう仕方がない。いっしょに頑張りましょうというところである。
 スターバックスジャパン株は30000円ちょいで10株買った。配当金は75円/1株という雀の涙程度だが、普通預金よりはマシだろう。株主優待でドリンク券が6枚もらえる。これが嬉しい。もし禁煙とソファがなくなるようなことがあれば、株主総会で徹底的に闘うつもりである。

■で、スタバのソファで考えたこと。
 竹田青嗣だか加藤典洋がどこかでこんなことを書いていたような記憶がある(極度に曖昧)。「トシを取ると、自分から外へ向けての浸透圧が弱まって、外からのものが自分の中にしみ込んでくる」と。身体の調子が悪いときにはこの言葉が実感される年齢に俺もなった。隣の席では女子高生が絶叫しつつおしゃべりをしているが、ウルサイとか若い女はええのうという感覚はなく、淡々と音声が身体の中を擦り抜けていく感じ。
 20代前半までは、何もせずにボーっと時間を過ごすのが苦手だった。今では、旨いコーヒーと本、またはグッドミュージックがあれば何時間でもOKだ。空気が動いているのを感じたり、光がまぶたに当たっているのを感じるだけでも結構シアワセだったりする。
 ジョン・レノンに『ダブルファンタジー』という彼が射殺される直前に出たアルバムがあって、昔は『ウーマン』とか『スターティング・オーヴァー』が好きだったが、このごろは暑苦しく感じる。で、何が好きかというと『ウォッチング・ザ・ホイールズ』。メリーゴーランドにはもう乗らない、眺めているのが楽しいんだ、という歌。
 実際には俺の年代は眺めているどころか、メリーゴーランドを必死になって回している側の人間なのだが、この歌の力の抜け具合が俺には嬉しい。昔は、これがかつてIRAに資金援助していたジョン・レノンの歌う歌かい、トシは取りたくないもんだな、などと思ったものだが、トシをとった今となっては、これもありだと大声で認めざるを得ない。別の作品を喩えに使えば、ライ麦畑で遊ぶ側から、子供たちが崖から落ちないように見守る側に、俺は移りつつあるのだろう。

■今日買った本。
小浜逸郎『人はなぜ働かなくてはならないのか』(洋泉社新書)
仲井戸麗市『ロックの感受性』(平凡社新書)


2002/06/09 [日]   

■風邪薬の影響か、昨日は昼間中ずっとうとうとしていた。薬で眠くなるのはあんまりナチュラルではなくて、外からの力で眠らされている感じがして、あんまり気持ちよくはない。でも身体は休まった。だいぶマシになった。で、そういうときに限って締め切り2日前の原稿を発見してしまったりして夜中ひぃひぃ言いながら仕上げる。自業自得。

■一昨日から昨日にかけて、日比野真さん関係の文書をアップ。とりあえずできることはこのくらい。パレスチナ人が「普通」に生きることすら困難な彼の地を思うと、「平凡」に「シアワセ」であることの意味がようやく分かる。そうしないと分からないのが情けないと言えば情けないが、日比野さんがそういう「平凡」を彼の地に少しでも回復すべく赴いたのであれば、俺もこの地で「平凡」を実践してみるのである。


2002/06/10 [月]   

「先行者」のプラモデルが付録だと言うから『ネットランナー』買ったのに、付いてないじゃないか!何でだよ!ファッキン・ブックフォーラム本山!不良品だ!詐欺だ!明日返品だ!レシート無いけど断乎返品だ!撃つぞ中華キャノン!ビ〜ム ビ〜ム ビ〜ム ビ〜ム ビ〜ム ビ〜ム!店舗破壊だ!

■麦人が通う学童保育が運営資金稼ぎのために「神戸市子育てフェスタ」で模擬店を出した。会場は湊川公園。阿久沢も実行委員なので、俺も朝から手伝いに行く。ビールやジュース、チキンナゲットやフライドポテトなどを提供するのである。
 俺は非実用的な人間で、テントを上手に立てることもできないし、食材やクーラーボックスやコンロを然るべき場所に並べるのも要領悪いし、揚げ物を上手に作れるわけでもないし、見かけ倒しで力もないし、ましてやその場を仕切るなんてとんでもない。無能なら無能なりに、ゴミ箱をしつらえるとかおつり用の小銭を両替に行くとか、雑用を探し出してちょこまか動ける人もいるのだが、俺はそれさえも不得意だ。かてて加えて図体がでかいので、こういう現場では「総身に知恵が回りかね」あるいは「うどの大木」を絵に描いたような存在と化してしまい、身から出た錆ではあるが居心地が悪い。
 仕方なくテントの横で腕を組んでしばらく立ち尽くす。ようやく仕事を思いついて、ジュースの行商などをした。よく売れたので楽しい。

■昨夜の9時40分ごろ、同じマンション・隣のマンションをはじめ近所中から「うぉぉぉぉ……!」というどよめきと拍手ががいっせいに聞こえたので何事かと訝る。ああそうだ、サッカーやってたんだ、と気が付いてテレビを付けたら、日本が1点入れたところだった。テレビのスイッチは切って、どよめきを聴いて戦況を想像してみた。この叫び方は日本有利にボールが転がったのか。いや、かすかにノドを締められたような音が混じっているからロシア有利かな、などと。


2002/06/12 [水]   

■呪術系幼児・文人の扱いに困惑している。

 まず彼は、お菓子を買ってやっても食べないで持ち歩いている。ピンク色のラムネとか、いろんな色が詰め合わされている「フーセンの実」とか、ごはん中も遊ぶときも、風呂場の外まで持っていくし、当然枕元に置いて寝る。ときどきうっとりと眺めたり、匂いをかいでいる。食べるのではなく、そうして自分の側にあると安心するらしい。

 お菓子を持ち歩くくらいなら、床に落としてアリがたかったりしないよう注意していれば済むが、先ほど文人は泣きながら寝室から這い出してきて、キッチンの床に座り込んで途方に暮れたようにひぃひぃ泣いていた、「こっち来て…こっち来て…」と言う。「何だ子供は寝ろ!来てほしいならどうしてかを言いなさい」と声を掛けると、電子レンジのタイマーディスプレイを指さして「ここが100になったら爆発する…」と泣く。「爆発しない!寝なさい!」と笑いながら言うと、怒ってさらに泣いてしまう。

 ヨノナカは彼にとって不安に満ちた空間なのだろうか。いろんなものに祈りを捧げたり、神懸かりになってみたりして、ヨノナカと折り合いを付けようとしているのだろうか。テキトーにヨノナカと折り合いを付けてしまった俺にはもう踏み込むことのできない領域のように思われる。ただただ見守るしかないのかも。

■文人は保育園でも、ブロックとか積み木とかビーズとか、これは!と自分が思った遊びに集中してしまうと、友達とは一切交流しなくなるらしい。友達と遊べないわけではなく、遊ぶときは実に楽しそうにじゃれあっているのだが、いったん自分の世界に入ってしまうと、なかなか出てこないのだという。これは俺にも阿久沢にも麦人にもない資質で、アート系の才能があるのかなという気もするので、このまま大事に伸ばしてやりたい。やっぱり呪術系。

■…と、つらつら書いていたら、今度は寝ぼけた麦人がキッチンで小便をした。床に黄色い湖ができた。麦人は寝ぼけるとトイレの場所が分からなくなるようで、所構わずパンツを下ろしてしまう。10回のうち8回は事前に取り押さえてトイレに連れて行くが、今回は余裕で間に合わなかった。雨音かと思っていた。
 米袋に向かって放尿したので、米は買い直ししないといけない。「麦!お前、どこでおしっこしたんか分かってるんか?」と肩をつかんで揺すってみるが「…んん?」と円らな瞳で俺を見上げるだけだ。もういい。寝なさい。


2002/06/13 [木]   

■大学に入学して寮に入ったら、そこには5回生という人々がいた。これが学生運動やりすぎて卒業できなかった5回生というヤツらか!と、何となく感動したのを憶えている(6回生も7回生もいたが、あまり新入生の前には姿を見せなかった)。この5回生たちはまさしくトンでもない連中で、今の俺はもちろん当時の5回生たちよりもずっとトシを重ねているわけだが、未だにあの5回生たちの視野と行動の幅には全く及んでいないのではないか、と不安になることすらある。
 そんな5回生の一人に上杉さんという人がいて、青春台無しというバンドをやっていた。今もジェロニモ・レーベルというバンドをやっている。俺のサイトからもリンクを貼っているが、そのキャッチコピー(「ギターを抱えた頑固者」)が古色蒼然としていて気にいらん、新しいCDが出たらもちっと気の利いたのに書き直せというメールをずいぶん前にいただいていた。その新CD、『罰当たり幸福男』が発売になったので、俺は今から新しいキャッチコピーを考えないといけない。そのためにCDの感想などを記しておこうと思ったのである。

■ギター+ベース+ドラムのストイックな編成。昔から変わらない。上杉さんはシャウトして爆裂ギターを弾く。上杉さんには「古武士」っていうイメージがある。戦法や武器は時代が流れて変化していっても、古武士は古戦場で使った重くて太くて長い刀を、いつの世もブンブン振り回しているんだ。鉄砲玉も核兵器も、小洒落た生物兵器も毒ガスも、この刀で全部はね返して、敵の頸をずばーんと打ち落としちゃうんだ。だから、古武士のそばに寄るにはこっちにもエネルギーが要る。
 ジェロニモ・レーベルが歌うのは怒りといらつきと開き直りだと思っているんだが、特に俺が惹かれるのは開き直りの部分である。
 ウンコな超大国がおっ始めた報復戦争だの、イスラエル軍の傍若無人の振る舞いだの、「感動した!」だの「備えあれば憂いなし」だの、頭の中も言語能力も極度に単純すぎるこの国の首相だの、まともに考えれば腹が立って腹が立って仕方がないことばかりだが、なかなか思うようにヨノナカが変わっていかないのもまた現実である。そんなとき、やけくそにならず諦めもせず、どんな角度で空を見上げればいいのか。どんなファイティングポーズを取ればいいのか。
 一つ前のCD『袋小路で踊れ』のタイトル曲、『袋小路で踊れ』に
R&Rが炸裂する
袋小路でまだまだ踊れる
登り詰めたか 極めたか そのうちわかる
わかるさ お前にも
というフレーズがあって、俺に答えの予感のようなものを示してくれたと思っている。今回のCDにも『我ら生き延びて』という曲がある。
あいまいな あこがれを
ほとばしる 欲望にのせて
囲まれた この界隈で
戦略を 立てなおしながら
そうそう、戦略を立てなおしながら!

■上杉さん、アンタやっぱり頑固者だよ!あのコピー、そんなに悪くないじゃないか。


2002/06/14 [金]   

これを見ていたら何も手に付かなくなった。

http://www.otogai.com/bakabaka.swf


2002/06/15 [土]   

■あー、これは痛いなぁ…。ウルトラマンコスモスが逮捕されちゃったよ。テレビも打ち切りだそうだ。夏休み映画も公開中止の可能性が高そう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020614-00001068-mai-soci

■毎週の放映を楽しみにしている麦人に、「コスモスが警察に捕まっちゃったよ」と新聞を見せながら(容疑者の写真の代わりにコスモスの写真が載っている)説明すると、「ふーん、じゃあ、コスモスは途中になっちゃうんだ」とほんの少しつまらなそうにしていた、落胆したとかいう感じではなかった。たとえコスモスが見られなくなっても、ハリケンジャーも仮面ライダー龍騎もやっているから正義のヒーローには事欠かないのだ。特定のナニカに全智全霊をかけてのめり込むことのない麦人のバランス感覚は、こういう時にとりわけ発揮される。

■だから、子供の夢を壊したとか裏切ったとか言うつもりはない。ヒーローに変身する役の少年がたまたまやんちゃな少年で、主役、しかも放映の最中という悪条件が重なっただけだ。仮にムサシの同僚の大デブ隊員(名前は知らない)が逮捕されても、彼の登場シーンがカットされてそのまま放映しただろうと思う。役者なんつーヤクザな世界に首を突っ込むくらいだから、やんちゃな過去があったとしても驚くには値しない。
 やるせないのは、まず、平成ウルトラマンシリーズ(とりわけガイア・コスモス)で円谷プロが提示した問い(「人類を守ることは地球を守ることと同義なのか?」「敵を暴力で圧倒することが平和につながるのか?」)が、未完のまま置き去りにされてしまうことだ。俺と同世代の円谷プロのスタッフが気の毒でならない。
 そして、幼い俺のそばにあり、今は我が子のそばにあるウルトラマンなる存在が、こういうアクシデントによって突然消えてしまうことは許せない。地球なり人類を救うことを放棄するのでもいい、人類の敵になるのでもいい、アメリカのように独りよがりなエセ正義を振り回すのでもいい。最後に大きくうなずいて、ショワッチ!と飛び去るのがウルトラマンというものではないか。そんなウルトラマンや仮面ライダー、宇宙刑事たちの姿を胸に留めて、励まされたり批評したりツッコンだりして世界を理解する突破口にしてきた俺の世代なのだ。チンケな警察官に連行されて留置所に放り込まれてオシマイになるウルトラマンなんて、セットが崩壊するドリフターズみたいだ。

■放映しろ!すればいいじゃないか。容疑者がテレビに映っていてもいいじゃないか。「テレビでは正義の味方を演じているけど、弟の友達を脅してお金を盗っちゃったらしいよ」って、子供には教えてやればいいではないか。目に見えるものの後ろには見えないものがあるんだってことを子供は学ぶだろう。そして、真に優れた物語世界は、下らない現実や生身の人間の行状などを超越して訴えかけてくるのだということを感じるだろう。

■一度ヒーローとなった者は、ずっとヒーローでいなければいけないのだ。藤岡弘は偉い。


2002/06/16 [日]   

■土曜日は麦人の小学校で父親参観があった。もちろん母親もOK。阿久沢と文人と3人で見に行く。小学校って昔と同じ匂いがするなあ。

■麦人が親の当初の観察とは異なり、割と上手に世間や人間関係を泳いでいくタイプであることは最近分かってきていたが、今回の参観でそれを再確認した。

 先生が「分かる人?」「質問がある人?」と呼びかけても、自分から積極的に手を挙げることはしない。教室を見渡して、クラスの8割が挙げていることを確認すると小さく耳の横あたりまで、形ばかり挙手する。
 1限目の授業は、後日実施される「公園探検」の下準備とかで、班の名簿カードを作ったり、クラスや行き先を先生に申告する予行演習らしきことをしていたが、明らかに熱意がない。先生が他の班を指導している間、班のメンバー全員で手をつないで回ったり、隣の男の子のほおにパンチを入れる真似をしている。かといってボイコットするわけではなく、必要最小限のことはやっているので、叱られるツッコミ所は一つもない。

■2限目は体育で、クラス対抗のかけっこ大会だった。麦人は、自分がダントツでトップであることを確認するや否やスピードを落とし、後ろをちらちら振り返りながら余裕で1位でゴールイン。まったく気合いとかやる気が感じられない走りだった。
 麦人にはきっと、先生に評価されたいという気持ちが欠片ほどもないのだ。それがよくわかった。よほど自分に自信を持っているのか、小学校という場で自己の存在を確認する必要を感じていないのか。しょうがねえから学校に付き合ってやるよ、という感じだ。宮台真司のいう脱学校化を、何の苦労もハードル超えもなく体現しているように見える。それはとてもよいことだ。

■この日一番面白かったのは、「朝の会」。前の日の出来事を一人が前に出て発表し、他の子たちは手を挙げて質問をする、というコーナーである。
 ある男の子が「昨日は、家で、ゲームをしました。とても、面白かった、です」と、小学生低学年っぽい、ゆっくりとした口調で発表すると、「はい!」と手を挙げた別の男の子が「そのゲームは、ゲームボーイですか?ゲームボーイアドバンスですか?プレステーションですか?」と同じくゆっくり質問をする。答えは「ニンテンドー64です」。


2002/06/18 [火]   

■6月に入ってからへたばっている。暑くなるのが急すぎる。体力に余裕がないと、余分なことを考えることができないから辛いなあ。机まわりも片づけないと。仕事でいっぱいいっぱいだ。講師室では、何も考えずただぼーっとしている。省電力モード。これで8月とかになったらどうなっちゃうんだろう。考えるだに恐ろしい。ユンケルとかリポビタンDのようなオヤジ健康ドリンクを飲んだら名実ともにオヤジになってしまうと思って、パッチと共に最上級の禁忌物にしているのだが、このままでは破ってしまいそうだ。うぅぅ・・・とりあえずサプリメントでお茶を濁すか。

■イボイノシシさんのBBSへの書き込みを読んで思ったこと。
 ヨノナカを動かすには政治の力が必要な局面があって、そのためには職業革命家というか、プロ市民・ニセ市民的な人々がいてくれないと困るのだ。しかし、だからといって全ての人々が職業革命家になる必要は更々ない。向き不向きというものがあるし、人民大衆ってヤツがいないと一番困るのは職業革命家・プロ市民の諸君であろう。。
 かくいう俺も、高校生〜大学生の途中まで職業革命家・プロ市民的な者になりたいと思わなくもなかったが、俺のように人望が薄く、他人の面倒を見ようという気すらない者がそんな大層な者になれるわけはないことに気づくのにさほど時間は掛からなかった。要は役割分担である。俺の役目はそこにはない。

■俺は思う。革命とはシアワセな暮らしを、最大多数の人々が送れるようにすることであると。そしてシアワセの本体とは、よく眠って、気持ちよくオメコして、うまいメシを食って、子供や犬をかわいがって、植木鉢に水をやって、仕事がそこそこうまくいって・・・という当たり前で平穏な日々の連続なのだ。今現在が矛盾に満ちているからといって、そういうシアワセを追求してはいけないという話はあるまい。むしろ、シアワセを追求し、部分的であるにせよ実現できない者に、革命など幻視すらできないだろう。
 革命とは「ここではないどこか」にあるのではない。「今日の隣の隣の隣」くらいにあるのではないだろうか。

■たとえば、イスラエルにいる日比野を思う。日比野がパレスチナでやろうとしたことを俺は100%支持するが、今の俺に同じことはできない。能力の問題もあるが、俺がパレスチナに行って拘束されれば、育児が滞るし受験生も迷惑する。しかしだからといって俺はパレスチナ人に申し訳ないとは思わないし、日比野と同じように行動できないことを遺憾にも思わない。日比野が俺にできないことをやっているのと同様に、俺はここで、日比野にはできないことをやっているからだ。
 日比野がパレスチナに赴いたのは、イスラエル軍の監視のために病院にも行けない、男というだけで令状もなく拘束されるといった、当たり前な日常生活すら送れないという状況への怒りのためだろうと想像する。世界の誰もがパレスチナという地に注目する必要がないくらいに、この地に当たり前のシアワセが回復されること。それが日比野を含む活動家の願いなのではないだろうか。
 ならば俺は、俺の居る場所で、須く人類が享受すべき当たり前のシアワセというヤツを追いかけてみたい。なべての宗教・革命理論・職業革命家が目的の地とするものを。加藤典洋風に言えば「自分の足下を掘って掘って掘り抜く」のだ。


2002/06/19 [水]   

■ふと子供が眠っている寝室をのぞくと、麦人が尻&ちんこ丸出し、しかし靴下だけ履いて、うつぶせに倒れるようにして寝ている。泥酔したサラリーマンがつい服を脱いで道路で寝てしまったという風情だ。
 想像するに彼はトイレに起きて小便をしたのだが、ちょっとパジャマのズボン&パンツを濡らしてしまい、自分で着替えようと思ったのだ。麦人の下着と靴下はタンスの同じ抽斗に入っているのだが、彼はたまたま最初に手に触れた靴下を何の気なしに履いてしまい、ミッション終了とばかりにその場で倒れ、寝込んでしまったのに違いない。
 こいつらは俺の遺伝子を引き継いでいるので知らぬ仲ではなし、生まれてからほぼ毎日顔を合わせているから大抵のことは分かっているつもりなのだが、毎日のように意表を突いた行動を見せてくれる。他人ではないから時には文字通り尻ぬぐいをしてやらなければならないけど。

■その麦人は週末、頭を五分刈りにした。保育園ではその頭は「おぼうさん」と言われていたが、「学校ではもっとひどいことを言われた」と麦人は言う。それはもちろん「ハゲ!」と言われたのである。麦人はそうやっていじられるのが好きみたいで、別に気にしている風もない。

■サッカーはあまり見たいと思わないが、サッカーに浮かれている人は好ましい。みんな馬鹿騒ぎをしたいのに、なかなか適当な口実が見つからないのだろうなぁ。他人の物を壊したり、他人を傷つけるのは困るが、顔に絵を描いたり道頓堀に飛び込むのはステキだ。
 サッカーのような他愛ないものに浮かれて、大騒ぎするためにこそ人生はあるのではないか。偉人になるとか金持ちになるとか夢を実現したとか、冷静に考えて善いことはちっとも面白くない。おおおおおおぉぉぅう!と叫んで肩を組んで人類補完計画をちょっと体験してみて、おお俺って生きてるじゃん!と感じてみる。悪くないと思う。そのためのツールとして日の丸を振り回したり君が代を歌い散らしたりしたところで、バチはあたらないっしょ。俺はサッカーではそういう気分にならないというだけのことで。


2002/06/20 [木]   

■今朝、麦人が脱ぎ捨てたパジャマのズボンとパンツがゴミ箱から発見された。どうやら昨夜、寝ぼけて脱いだ後、洗濯機に入れたつもりでゴミ箱に入れたらしい。本人にはまったく記憶がないらしい。面白すぎ。

■昨日、文人が保育園のお散歩でみんなと近所の公園に行ったとき、他の保育園の男の子が「男のくせにおじゃ魔女どれみの靴下をはいてる!女だ!」とからかったらしい。昨日、帰ってくるなり、「もうどれみははかないの…」と拗ねたように繰り返し言っていた。今朝になっても履こうとせず、麦人の靴下(デジモン)を履いて出かけた。赤やピンクやオレンジ色を愛し、女児用衣服を身にまとう文人の女の子的要素の数々は、こうやって少しずつ消えていってしまうのだろうか。予想していたこととはいえ、つまらない。
 ただ、周囲の目を気にして女の子的なモノを身につけなくなっていったとしても、そういう可愛くてキレイなものを愛していた気持ちは、きっとどこかに残るに違いない。そして、高校生くらいになったらこっそりと綾波フィギュアなどを集めてうっとりしたりするんだろう。それはそれで楽しみではある。

■最近読んだ本
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫)
→老人になって人より長生きすると、反論する者がいなくなっていくからしゃべり得だよなぁ、という本。今のことなんて大したことないヨ、俺のころはもっと大変だったけど、俺は今の連中よりずっと上手くやったんだヨ、という本。勝が西郷隆盛を大好きで、伊東巳代治が大嫌いだったことはよく分かった。
 真剣70代しゃべり場!とかやったら凄いだろうな。司会は誰がやるんだ。森重久弥?


2002/06/21 [金]   

■阿久沢が麦人に、小学生用の国語辞典を買い与えた。最近、「○×ってどういう意味?」とよく聞いてくるので、自分で調べられるようにだ。でも、「あいうえお」「あかさたなはまやらわ」の配列がまだよく分からないらしく、一人で検索するのはまだできない。
 で、さっき、『あずまんが大王』の原作マンガを熱心に読んでいた麦人が、「パパ、ブルマって何?」と言う。ダメモトで麦人と一緒に辞書を引いてみたら、ちゃんと載っていた。「女の人の運動用パンツ。動きやすくなっている」と書いてあった。まあその通りだが、『あずまんが大王』の作者の思い入れはこれでは伝わらないだろうなあ(伝える必要もないが)。

 ここは名辞書として名高い三省堂『新明解国語辞典・第二版』の粘着ぶりが懐かしい。例えば、
「マージャン」=中国から伝わり、現在サラリーマン・業者。学生の間で大流行の室内遊戯。竹を裏につけた百三十六枚のパイを用い、四人で勝敗を争う。金を賭け、徹夜でやる者が多い
と。また、「芋」の用例では
「芋辞書」=大学院の学生などに下請けさせ、先行書の切り貼りででっち上げた、ちゃちな辞書
などと書いてある。「真似」の用例には
「先行書の真似はよせ」
」と、なかなかご立腹である。
 この辞書は浪人時代にお茶の水の古書店をめぐって探し出したモノ。以来十数年、我が座右にあって俺の日本語をサポートしてくれている。

■麦人の書き取り宿題のお題。この8文字を、先生が8マスのノートの大きさに合わせて書いたお手本があり、これを各自のノートに貼り付けた上で、1日1行ずつ、その横に同じように5回ずつ書くというモノである。
おはようみえたよ
うさぎさんのおう
ちうちにうさぎが
いるよみにきてね
いちねんいかうし
はさみおのおにい
わししてがみしか
たかさるいたちう
たたちうおいええ
はがきいるかみか
んてんきのんきお
ねえさんがんばる
最初の3つは「お早う見えたよ。ウサギさんのお家にウサギがいるよ。見に来てね」を分割したものであることは理解できるが、そこから先は呪文である。「一年烏賊牛」「鋏斧お兄」「高猿鼬鵜」なのか……??「たたちうおいええ」「んてんきのんきお」に至っては、何かのパスワードとしか思えない。ここまで訳の分からない文字の羅列になるとそれはそれで楽しくなってくる気もするが、如何なる意図でこういう書き取りをさせるのかは、機会があれば先生に尋ねてみたいところではある。


2002/06/22 [土]   

■先々週あたりに比べると朝夕は少し涼しいようで、体力はだいぶ回復してきた。暑さに身体が慣れてきたのかもしれない。お昼ごはんもあんまり食べたくないのだが、抜くと午後4時過ぎに如実にへたばるので、無理して食べている。それも脂っこいものを一品入れてね。

■それでも教室は暑い。この季節は空調の調整が難しいので、ともするとすぐに蒸し暑くなってしゃべりながらテキストに汗の玉が落ちたりもする。
 思うに、若い人たちは体温を放射し過ぎなのだ。だからこの教室はこんなに暑いのだ。いや、俺も若い人たちも平熱は36度台で同じようなものなのだろうが、若い人たちの体温は身体の中で黙っていないで、どんどん外へ飛び出しているような気がする。そういえば、麦人と文人も一緒にいると、こっちまで汗ばむ。冬の夜は同じふとんにいるとほこほこして最高に気持ちよい。
 きっと、若い頃は外に向かってうんざりするほど放熱していて、それがトシとともに少しずつ外へ出ないようになるのではないだろうか。老人になると、逆に周囲の熱を吸収するようになったりして。葬儀の時、ご遺体のそばにいると心なしかひんやりするのは、ドライアイスのせいだけでもあるまい。
 年相応っていうのは、年齢相応に熱を出したり吸収したりすることなのかもしれない。年齢も考えずにむちゃくちゃ放熱すると暑苦しいオヤジだと言われてしまうのかもなぁ。若い人たちの熱を上手に吸収して、こっちからも少しくらいは熱を出してみる。そんな感じになれれば理想的だなぁ。


2002/06/23 [日]   

■気温が少し低めで風もある一日。昼寝しまくりの一日であった。夕方、麦人をスイミングスクールへ連れて行くとき、手をつないで歩いていた麦人が「土曜日と日曜日は退屈だなあ。明日は学校の友達と遊びたい」と言う。「学校の友達は毎日会ってるだろ。お休みの日はパパと遊ぼうよ」と反論したら、「だってパパは寝てるじゃないか!」と言われてしまった。ううむ。
 プロレスごっことか、かなり付き合ってるつもりなんだけどなあ。ベイブレードとか歩回しとか、はっきり言ってつまんねえんだもん。

■夕方、夕飯をつくりながら、キッチンからテレビの『ウルトラマンコスモス総集編1』をちらちら観た。番組の最初にコスモスが登場して
いつもウルトラマンコスモスを応援してくれてありがとう。ムサシが急に番組に出られなくなった。彼がいつまたみんなの前に姿を見せる事が出来るようになるのか、私にもわからない。そこで、今週から2回に渡って、私とカオスヘッダーとの最後の戦いを見てもらう事にした。じっくり見てほしい
などと言っていて微笑。開き直ったな円谷プロ。それでよし。


2002/06/24 [月]   

■仕事から戻ってみると、まだ6時過ぎだというのに文人が寝室の隅に畳まれたふとんの上にひっくりかえって眠っている。友達と遊んで、帰宅するなりものも言わずに倒れるように眠り込んでしまったらしい。「ごはんだよ!」と揺すぶってもニヤニヤ笑うだけで起きず、そのまま夜になってしまったので、もう朝まで寝かせておこうということになった。眠り続けるのにも体力が要るというが、彼に体力は有り余っているに違いない。
 麦人は寝そべってマターリとマンガを読んでいる。

■今日は早稲田マスコミセミナーで初仕事。アナウンサー志望の学生さん対象の講座だ。個人的にエントリーシートや作文の書き方を指導したことはあるが、大勢の前で話をする形でやるのは初めてなので、けっこう緊張した。
 予備校で教え始めた頃を思い出す。最初はえらく必死で気合い入りまくりだったけど、ヘンな所に力を入れたり、板書をたくさん書くことがサービスだと思いこんでいたりして、今から思えばまだまだだった。それが分かるので、今回、マスコミ就職指導の仕事を正式に始めるにあたっても「大丈夫かよ俺。何年かして今日の講義を思い出したら赤面だろうなぁ」という不安はある。この不安は、ひたすら講義の準備を整える以外に消す方法はないので、レジュメは1週間前から書き起こしてある。で、直前まであれこれ手直ししながらアタマの中で講義してみるわけだが、やっぱり実際の教室で受講生の方々の顔を見てみないと何をどんな順序でしゃべるかなんて、かっちりとは決められないのだ。だから講義は面白いのだ。

■で、教壇に立ってみたら、受講生の真剣さは予備校生の比ではない。その真剣さに煽られるみたいにして、自分ではいい感じで講義できたと思う。
 予備校でも、俺は講義中に受講生を指名させて答えさせるみたいなキャッチボールはしないんだけど、受講生の気合いの入り具合とか教室の雰囲気で、自分から流れ出す情報量とかエネルギーって全然違うんだよね。太鼓は強く叩けば大きくなるのと同じで、そういう姿勢で話を聞いてくれればお互いプラスになるわけだ。
 やっぱりナニかを教えるのは面白いね。特にナマはいいね。

■髭剃り失敗。ホクロに刃を引っかけて大流血。うひー。


2002/06/25 [火]   

■朝から雨。気圧が低いのが耳で分かる。ずっと飛行機で離着陸しているみたいなかんじで、耳の奥から後頭部にかけてが重痛い。眠い。授業で大きな声を出すとずんずーんと響く。身体全体の調子はそんなに悪くはないが、これは参った。
 生徒さんも怠そう。教室、湿っぽいしね。低気圧は敵。

■それでも深夜ウォーキングへ。途中で向かい風が急にごうごうと吹き始めて往生した。

■昨日読み終わった本。
岡田啓介『岡田啓介回顧録』(中公文庫)
→岡田啓介は二・二六事件当時の首相。斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らとともに陸軍皇道派の襲撃を受けたが、反乱軍は義理の弟を岡田本人と誤って殺害したため、難を逃れた。太平洋戦争の末期には近衛文麿ら重臣グループの一員として、終戦工作に従事した。当事者の言葉というのは自己正当化の分を差し引いても面白い。
 本筋とはあまり関係ないが、天皇機関説事件に関する次の部分が印象に残った。
余談だが、終戦後熱海で入水した清水澄博士……あの人には、そのころよく意見を聞いていたものだ。政府は別に清水博士の意見を聞いて機関説の学説としての是非にふれる気はなかったが、議員の質問に答弁する前には、一応、当時行政裁判所長官だった清水博士に諮問していたわけだ。博士の学説はだいたい美濃部博士と上杉博士の中間的なものだったように思う。清水博士は陛下に進講申し上げたこともあり、その後枢密院副議長になって、終戦後は議長となった。新憲法制定と共に、信念に満ちた遺書を残して世を去ったが、旧憲法に殉じたのであろうと考えられる。
 時代が真っ逆さまに変わるとき、時代と寄り添って順応していく人々と、違和感を残しながらも何とかやっていける人々と、寄り添う自分を潔しとせずに自決したり仙人のように暮らす人々がいる。最後の種類の人々はもう何も言わないけれど、その視線を感じることなく政治や歴史を語るのは、何だかみっともないことだなあと思った。


2002/06/26 [水]   

■ちょっと時間が空いたので、足裏のツボマッサージというのをやってもらった。京都駅アバンテイで30分。
 最初、ぬるぬるのローションを足の裏に塗られて、すげえくすぐったくていきなり後悔したが、マッサージが始まると今度は筆舌に尽くしがたく気持ちがいい。足の裏からあったかい光が身体中にぐぐっ、っと入ってくる感じで、んーんーんー、と30分間呻り続けていた。

■高度経済成長期あたりから、「余暇を楽しむために働く(お金を稼ぐ)」という価値観が広まってきたように感じている。昨今のフリーターの増加の背景は、正社員としての就職が難しいという状況もさることながら、適度に働いて稼いで、できるだけたくさんの時間を余暇に費やすのがより快適な生き方である、とする価値観が主流になってきたこともあるのではないだろうか。
 俺はもちろん、それがいいとか悪いとか判断しようというのではない。

■俺は今、マッサージ店の椅子に横になって足の裏を気持ちよくしてもらっているわけだが、これはもちろんリラクゼーションタイム、余暇の一環である。うううぅぉお、気持ちよい、こういう瞬間のために俺は生きてるのさぁ、という気持ちがもりもりと湧いてきている。ひょっとしたら、この快感を味わうために俺は足をぱんぱんにして一日に4時間も6時間も講義しているのじゃないかという気さえしてくる。
 もちろんそれは錯覚だ。いかに気持ち良くたって、一生ずっと足の裏をもんでいてもらうわけにはいかない。お金の問題ではなくて、それでは余暇が余暇でなくなって、リラックスがリラックスでなくなってしまうからだ。至福の時間は終わりが来るから至福の時間なのである。

■前から疑問に思っていることがある。休みのたびにバックパック背負って、飛行機に乗って海外に行く人たちがいる。山や海へ出かけて、まるでノルマをこなすように登ったり泳いだりする人たちもいる。カヌーとかボートとかお金がかかりそうな趣味を持って、小屋作ったりして、ほとんど事業みたいになっちゃってる人もテレビで見た。そうやって遊ぶことが人生の中心であって、労働はその資金稼ぎであることを明言する人もいる。そうすると、遊びは労働にはならないのだろうか。リラックスして遊べるのだろうか。
 もちろんよそ様の生き方に口を出すつもりはなく、ここで一人言してみるだけだ。俺は暇を持て余し尽くして街を彷徨い歩いて本屋に入り浸ったり、寝っ転がって手に当たったCDをかけてみたり、ほんとに暇で暇でうとうとしてしまったり、今日みたいにふと前を通り過ぎたマッサージ店で足の裏を気持ち良くしてもらったり、っていうのがいいなあ。


2002/06/27 [木]   

■朝、保育園に出かけようとする直前に、文人が「一人歩回し」で遊び始めた。将棋盤の周囲に、賽子代わりに振った将棋の駒の裏表の数によって歩を進めていき、角に来たら歩→香車→桂馬→銀将→金将→角行→飛車→王将と進化して、王将が角に来たらおしまい、という例の遊びだ。通常は2〜4人でやるものだが、文人は一人でもするのだ。うちには将棋盤がないので碁盤で代用しているが、碁盤の方が辺が長いので、将棋盤よりも時間がかかる。
 「遅れるから行くよ!」と声を掛けたら、「行きたくない。歩回しをしたい」といきなり不機嫌になってしまったので、抱っこして連れて行った。

■この手の一人遊び、文人はするが麦人はしない。文人は一人で黙々とブロックを積んだり、ビーズを組んだりするのが好きだが、麦人は友達とじゃれあうのが好きだ。麦人は割と順調な人生、たとえば公務員や大企業のサラリーマンあたりに落ち着くのではないかという気もするが、文人は一発勝負の芸術家以外にないかもしれない。
 当たり前のことだが子供には個性というものがあって、同じ両親から生まれた2人でもこんなにちがう。そりゃ理屈の上では当たり前のことだと分かっているが、目の前で毎日繰り広げられるこの違いを見ると、心から納得する。子供はやっぱり複数いた方がいい。「こんなんも、こんなんもアリだ」と安心できるし、何より面白いから。


2002/06/28 [金]   

■今夜はソウル・フラワー・ユニオンのライブ。伊丹英子がオメデタで欠席とのこと。代わりにゲスト山口洋。極度に暑苦しいライブになるという予感がする。
 ま、楽しんでくるさ。

■久々に9時間眠ったので快調。


2002/06/29 [土]   

■心斎橋BIG・CATでのソウル・フラワー・ユニオンのライブから帰館。妊娠休職中の伊丹英子の代わりに、ヒートウェイブ山口洋が入る。とんでもなく男臭く汗臭いライブになるだろうと思ったら予想通りであった。中川の太い声とバカでかいギター。力で押しまくるという感じ。これはこれでよい。

■で、やっぱり会場に来ていた伊丹英子が3曲だけ参加。おいおい大丈夫か、という感じ。大きくなったお腹の上にブズーキを乗っけてステージに立った。妊婦だからといって別にスペシャルなコメントもなし。
 改めて思ったのは、やっぱりこのバンドは伊丹英子あってのバンドだなぁ、ということだ。伊丹を欠いても、頭抜けてカッコよくて良い歌を歌うバンドであることはもちろんなんだが、「最高の普通のロックバンド」なんだよね。伊丹がそこに立ってお囃子を入れることで、ソウル・フラワー・ユニオンは有象無象のロックバンドとは一線を画すスペシャルなバンドになるのだ。つまり、過去と未来に手足を伸ばし、東西南北地球のあちこちにハッピーな音を響かせるスペシャルなバンドに、だ。
玄界灘越えやって来た オモニが唄えば
サバニに乗ってやって来た オバァが唄えば
アイヌモシリに風よ吹け吹け フチが唄えば
魑魅や魍魎山河を撃て撃て 夜が明けても
               『海行かば山行かば踊るかばね』
伊丹のお囃子で、頭ン中で大爆発が起きる。ステージ直下に突撃し、若い衆と前後左右身体を密着させ、肩をぶつけ合いながら押し合いへし合いする。そこらじゅうから湯気が上がっていた。汗臭ぃ。

■ロックライブで大騒ぎするのもワールドカップサッカーで大騒ぎするのも、気持ちが盛り上がるという点では同じだ。手を振り回して絶叫する俺たちと、サッカーで盛り上がって道頓堀にダイブする連中とで、違う点はいくらもないだろう。俺はサッカーではスイッチが入らないというだけのことだ。だから俺は、サッカーはどうでもいいが、サッカーに盛り上がる人々が好きである。

■アンコール2曲やって、客電が灯って追い出しかな、とみんなが出口へ向かい始めたところで、いきなりメンバーが再登場!こりゃやられた!大あわてでステージ直下に駆け戻る。しかも演る曲が『もののけと遊ぶ庭』!やられ過ぎだ。
根絶された言霊の
瞬間の墓標を打つ雨が
気遣うように糾うように
捨て去られた日々を詠んだ
聴いて踊っているうちに、顔が笑えてきて仕方ない。今俺の手の中に爆弾があって、となりに石原慎太郎とかイスラエルのシャロンがいたら、俺はきっと自爆テロやるだろうさぁ、という訳の分からない気分になった。


2002/06/30 [日]   

■雨間をついて今夜もウォーキングへ。30分ほど歩いたところで、どうしたことか腹が下ってどうにも耐え難くなり、震災後家が建たないままになっている空き地に侵入して野糞を垂れる。いつ以来だろう。少なくとも社会人になってからは、立ち小便はともかく野糞をした記憶はない。お父さんだというのに情けない。
 犬を飼ったことがある人は分かると思うが、犬は散歩の途中で糞をするとき、実に恥ずかしそうな情けな〜い表情をする。今夜の俺もそういう顔をしていたに違いない。7年前、麦人の誕生と入れ替わるようにして15歳でこの世を去った、愛犬バンのことを曇り空の下、思い出してみた。

■Wカップサッカーで日本人は日本チームのみならず、節操なくどこのチームも応援して盛り上がる、という楽しみ方をしているそうである(マスコミ報道による)。確かに俺のまわりでも、ベッカムがかっこいいからイングランドを応援する、という気軽な動機で他国のチームを応援している。日本は応援しなくていいのか?と問うと、あたしは非国民ですから、と彼女は自らあっけらかんと宣言した。
 ヨーロッパの人々には、日本人のこういう態度は理解しがたいものであるらしい。しかし俺は、我が民族のこの節操のなさは、誇るべき美徳の一つではないかと思う。一体感を感じて盛り上がりたいから応援する。だから応援するのはどこの国でも構わないし、髪型がかっこいいとか、ほんのちょっとした思い入れのきっかけがあれば十分なのだ。しかもそれを十分に自覚した上で応援しているのではないか。
 我が民族は、実は結構醒めた目でサッカーを楽しんでいるのではないか。サポーターが日の丸を振ろうが君が代を歌おうが、卒業式や入学式で強制される時のような圧迫感は今回俺は感じなかった。楽しめ楽しめ。俺は別に楽しくないけどね。

■俺は、日の丸に頭を下げさせられたり君が代を歌わされるのはイヤである。そのイヤさというのは、上々颱風のライブで白崎映美が聴衆全員に同じ手の動きをするように促したり、ソウル・フラワー・ユニオンのライブでみんなが同じところで同じように天を指さしたり、「いいとも!」と声をそろえたり、豊田勇造がライブで手拍子や合唱を強制したりするのと全く同じ種類のイヤさなのである。こっ恥ずかしいというか、もう小学生でウルトラマンコスモスに夢中なのにアンパンマン見せられちゃった居心地の悪さというか、3日間幼稚園を休んでいたら、その間に新しい歌をみんなは憶えていて自分だけ歌えない戸惑い、というか。
 だから、学校の先生が日の丸や君が代に反対するのはどうにも解せない。「気をつけ。礼」とか、運動会の組み体操とか、校歌斉唱とか、同じように反対すべきものはナンボでもあるように思うのだ。