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2001年5月

たった今 (5/1(火)0:40)
 麦人がトイレに起きてきた。俺が仕事をしている部屋に入ってきて,「おしっこ……」と目をつむったままつぶやいている。立ったまま半分眠っている麦人に,「おう,えらいな,よく起きられたな」と声をかけると,目をつむったままおもむろにパジャマのズボンとパンツを引き下ろす。え…と思う間もなく,ちんちんに手を添え,その場で放尿を始める麦人。「お,お,おい…」とノドの奥で叫ぶ俺。にこーと目をつむったまま微笑んで寝室へ戻る麦人。甘美な犯罪の余韻のごとく生暖かい小便だまりを黙々と拭くことで五月一日は始まりを告げた。

静かなリアル (5/2(水)0:16)
 関西文理に出講。休みが続くから身体は楽なんだけど,かえって流れが途切れたというかなんというか,自分では今ひとつ調子のでない授業となる。多少負荷がかかったほうが,せっぱ詰まって良いのかもなあ。

 『Quick Japan』の故佐藤伸治のインタビュー記事を風呂の中で読み返してみる。

 「音楽はまず,やっているその人ありき,っていうのをいつも思っていて,だから……すごいカッコイイ人はすごいカッコイイことをそのままやればいいし,カッコ悪い人はカッコ悪いことをやればいいし,って。そういうことは俺,二十歳前後くらいに思ったから。一番カッコイイのは“リアル”ってことかなって。」

 なぜ二十歳なんかで気付けたのだ,この人は。
 俺なんか,最近になってやっと考え出したというのに。子供が生まれて,考え出して,やっとほんの少し開き直ってきたというのに。

深夜ミッション (5/3(木)7:51)
 おねしょ防止のため,夜中に文人を起こしてトイレに行かせなくてはいけないのだが,これが一大ミッションになっている(麦人は自分で起きるようになった)。

 叩いても揺すっても起きないので,眠っているのをそのまま抱いて,寝室から5歩のトイレへ文人を持っていき,狭い個室でパジャマのズボンとパンツを脱がすのだが,この段階で文人は「出ないでない…ふーちゃん寝てたんだよ!」と泣いて怒り始める。身体をよじったり床に座り込んだりするので,阿久沢も起こして二人がかりだ。俺が文人の脇に両手を入れて無理やり立たせ,阿久沢がちんちんをつまんで放尿させる。この段階になると文人は絶叫泣きに入り,「出ないっていってるの!痛い痛い!自分でするの!」と,狭い個室に響き渡る。もう幼児虐待をしている気分である。

 その中でも,シワ一つなく真っ白に勃起している文人のちんちんを「若いなあ」と考える余裕はあり,そうこうするうちに身体をよじらせて「いやー」と叫びつつ文人は放尿。「よし」とつぶやく阿久沢。
 何事もなかったように3人は寝室に戻り,再び入眠する。

 朝,満面のニコニコで,「ほら見て!ふーちゃんおもらししなかったんだよ!うふふふー」と俺の横にごろごろしてじゃれついてくる文人であった。

今日買ったCD (5/5(土)2:21)
  高田渡『日本に来た外国詩…』
  どんと『一頭象(どんとスーパーベスト)』
  南こうせつ『スーパーセレクト・南こうせつ・ベスト35』

 高田渡には言行一致というか,歌行一致という佇まいがある。いい歌をたくさん聴いて,たくさん歌うと,きっとこんな顔になるんだろう。その顔を見るだけでも歌が聴こえてきそうだ。トシとったらこういう風にはなりたくないなあ,という人はたくさんいるが,こうなりたいなあと思わせる数少ない人。

 さだまさしやドラゴンアッシュが赤信号なら,南こうせつは黄信号,または点滅して今にも赤に変わりそうな歩行者信号という風情だ。一瞬迷いはしたものの,えいやっとレジへ持っていく。さだまさしやドラゴンアッシュは怒りと不快感以外俺にもたらさないが,南こうせつは俺のセキュリティホールを突くように,いくつかの歌を響かせてくる。
首をかしげて微笑む君の
仕草は誰かにほめられたかい
             『旅立つ想い』
とか
過去を振り返ると
恥ずかしいことでいっぱいさ
永い眠りから醒めると
生まれ変わってた
なんていうのがいいね
             『愛する人へ』
 この際どさはなんだ。こういう,陳腐と言ってよいであろう情感が沁み通るのはなぜだ。やばいぜ,この信号,渡っちゃまずいぜと思いながら渡ってしまう快感。ああ,復活かぐや姫のライブも買ってしまいそうな俺。

昨日のイタメシ屋 (5/5(土)15:23)
 久々に,ムカッとさせてもらいました。(クリック!)→

どんと (5/5(土)21:13)
『どんと・スーパーベスト』,ヘビーローテーションの一日。気持ちいいー。やっぱり,音楽ってのは,あっち側を垣間見せてくれないと。そういう歌い手に限って,ほんとに,ひょいっと,あっち側に行ってしまうから,切ないね。

台湾論 (5/6(日)0:29)
 GW,阿久沢のご両親が遊びに来ている。孫に会いに。中村主人的な立場の俺は「ムコどの!」と声をかけられないうちに,スターバックスなどを転々。

 夕食時に家に戻ってみると,阿久沢とお義父さんが,台湾をめぐって論戦を繰り広げている。二人ともビールを飲んでいたので,必ずしも脈絡のある論議ではなかった。阿久沢は霧社事件とか,台湾総督府の武断政治などを根拠に植民地政策を批判していたかと思えば,「天皇が南京で土下座すれば賠償問題は解決する」とかめちゃくちゃなことを言うし,お義父さんはお義父さんで,「国の誇りを取り戻そうとしているんだから,李登輝を入国させるぐらいいいじゃないか!」とまったく意味不明なことを叫んでいた。プチ朝まで生テレビ,というか,朝生ファミリー,という風情であった。

 俺はプロレス中継を観ていたので聞かないフリ聞こえないフリ。
 台湾には先行者は作れないだろう,だから中共の勝ち,とこっそりジャッジしてみる。

 ああ,今日のプロレスはサイテー。長州も小川も,なんだ。

続・どんと (5/7(月)1:16)
 声そのものが笑ってる歌手っていうのがいて,俺の知る限りでは,植木等紅龍(ex上々颱風)だったが,これにどんとを加えよう。声を聴いているだけで,両手を広げてくるくる回って,口も空けて雨の下でニヤニヤ笑って踊りたくなるような・・・・

 奥平剛士・どんと・高橋和己。少しだけどいい先輩がいたじゃない,俺の大学って。

食う天 (5/8(火)0:41)
 GW休みすぎ。今ひとつテンション上がらない授業を7時間。上がらないが上げたフリはする。そこはプロだし。なんちゅーか,しゃべっていてもカラダがドラマのリズムに乗らない。テキストに活字で印刷されている人物が,活字のままだ。今日は飛び出してこない。肉体バイオリズムが精神バイオリズムにおいていかれている感じがする。
 こういうときに限って,廊下で大騒ぎしている奴らがいるので,うるせえ消えろ,と一喝。もちろんパフォーマンス込みの一喝であり,ほんとに怒ったわけではない。こんなんで怒っていたら,身が持たない。

 昨年の生徒さんから,洋菓子をいただく。塾講師のバイトを始めたという。初心を忘れないためにも,話をきいておきたいと痛感。洋菓子はとてもおいしそうな焼菓子だったので,「家族でいただきます」と受け取ったものの,自分一人で食べることに決定。

 今日も一日,どんとの『ムスティカ』が頭の中で鳴り響いていた。ふわーん。

 11時ごろ風呂に入っていたら,文人が脱衣所で泣きながら体重計に乗り降りしている。こら,早く寝なさい,と叱ろうと思って風呂場から顔を出すと,すげえ情けない顔をして泣いている。「ふーちゃん13きり(キロのこと)になっちゃった。(実際は17キロある)!」とべそべそしている。何度も量り直しては「ウエーーーーン;;」と涙を流し続けている。
 針をゼロに合わすダイヤルを,おそらくは麦人がいじったために正確な表示が出なくなっただけなのだが,文人は自分がまた小さくなってしまうと感じたのであろうか。ダイヤルを元に戻し,「ほら,ちゃんと17きりあるよ」と目盛りを指さしてやると,「う・・・ん!」と,力強く頷いて納得。自分で寝床に向かった。

今日のイタメシ屋 with Oチューター (5/8(火)23:29)
 関西文理で講義。だいぶ調子出てきました,はい。

 講師室でぼーっとしていると,大阪北予備校のKチューターとOチューター現る。関西文理の教務となにやら密談していた模様。Oチューターは帰りに例のお節介な標語を掲げるイタメシ屋をチェックしていたようで,BBSに報告してくれました。

>気合いで乗り切れ
>五月病


 ああ,逆なでにもほどがあるなり。ばりばり。
 乗り切れないから五月病。気合い入れば入るほど落ち込んでいくのが五月病。わからないのか?わからないなら書くなって。ネタがないなら出すなって。ああ,こんな下らない標語に怒っている俺も相当にお節介だ。

足が臭い (5/10(木)3:07)
 ああ,暑くなってくる。汗にまみれた子供らの足が臭い。ほんっとーに臭い。

 臭いぞ,足洗ってこい,と麦人に命じると,調子に乗ってにやにや笑いながら人の鼻先に足を持ってくる。やめえっちゅうに,と払いのけても,そこは子供だから,どこまでも追いかけてくる。仕事部屋でPC打っていても,夕飯を食っていても,鼻先に臭い足を押しつける。
 こっちはGW明けで仕事が身体に馴染まず疲労が堆積しているうえ,原稿締め切りが重なり睡眠不足で短気になっているため,簡単に限界突破。ええ加減にせえ!と臭い足をひっぱたいて払いのける。とたんに落ち込む麦人。くるり,と背中を向け,寝室に駆け込んで,ふとんにばたっとうつぶせに倒れてしまう。しばらくして漏れ聞こえてくる嗚咽。ああ,悪いコトしちゃった・・・と反省するのはいつも俺の方だ。

 風呂から出て,足の裏の角質をこそいでいたら,麦人が「ダメだよ,そんなコトしたら血がでちゃうよ」と,自分の手でごしごしと俺の足の裏をさすってくれる。いつもいつも感じることだけど,親が子供を好きな以上に,子供は親のことが好きである。少なくとも今・現在は。

続々・どんと (5/10(木)3:46)
 講師室でO先生が,MDウォークマンを耳に当てている俺に「何聴いてるん」と声をかけて下さる。ここ数日どんとを愛聴している旨を答えると,「あー,ローザ・ルクセンブルクのね」と頷いて下さる。そして,「でも,最近はローザもボ・ガンボスも誰も聴かへんで」とおっしゃる。
 あー,日本では音楽ってこう聴かれちゃうのね,と少し淋しい気持ち。俺にとって好きな音楽は聖典だから,好きなものは繰り返し繰り返し一生聴く。20年前だろうと昨日発売だろうと,同じことだ。服や電気製品みたいに,使い古すことなどない。

 ボブ・ディランが,こう話している。
世界は,もう新たな曲なんて一曲も必要としていないんだよ。…もう十分あるじゃないか。あり過ぎるくらい,ある。実際,今日以降,誰も一曲として新しい曲を書かなかったとしても,世界がそれで苦しむことはないだろう。みんな,どうでもいいと思っているはずだ。地球上全ての老若男女にひとり100枚ずつレコードを送ったとしても,同じ曲がダブることはないと言えるくらい,十分な数の曲があるんだ。
 …純粋なハートと言うべき何かを持った人間が現れない限り。そうなれば,また話は別だが。
 今や音楽も巨大産業なので,日々,メジャーからインディーズまで洪水のように曲が生産されて,どこかに流れていく。つまらない音楽も山ほどあるが,洪水の中にもキラキラ光る宝石はたくさん含まれているから,俺は耳を大きく広げて,しっかり拾い上げてやらないといけない。拾い上げたら,全部全部一生抱えて,何度も磨いて日にすかしたり見つめたりする。音楽は流行ものや消費物じゃない。

プロレス小僧 (5/11(金)3:01)
 たまに行く摂津本山駅前のラーメン屋さんの若い店員さんがプロレスファンであることが判明。木曜日は『週刊プロレス』と『週刊ゴング』の発売日なので,いつもの本屋で2冊買い込んで読みながらラーメンを食っていたら,カウンターの向こうからニコニコしながらのぞき込んでくる。「僕,仕事でテレビ見られなかったんだけど,小川と長州,どうでしたかー!?」と話しかけてくる。

 プロレスファンにとってプロレスは,それだけでかなりの程度心を通わせることのできる夢の通い路である。

 「僕,中学生の時,大阪の栗栖ジムに行ったことがあるんです」「おー,リングに上がらせてくれるという…」「そうそう!それが目的で」「84年暮れの最強タッグ決勝…」「あ,鶴田・天龍 VS ハンセン・ブロディ!ブロディが天龍をロープに振って,ハンセンがラリアット決めて…」「ブロディがジョー樋口と一緒にカウントを取ったんですよ」「そうそう,その日,長州が浜口と谷津を連れて,初めて全日のリングにあがったんだよね」

 ツーと言えばカーという,マニアックでディープでケーフェイなプロレス話。

 若い店員さんは,スタンプカードにハンコを一個おまけしてくれた。また来週。

昨日買った本 (5/11(金)10:10)
村田らむ・黒柳わん『こじき百科』(DATA HOUSE)
川本三郎『荷風と東京─「断腸亭日乗」私註』(都市出版)

 例によって,買うことと読むことは別である。
 俺の本棚を見て阿久沢が「これ,面白かった?」としばしば問うが,「さあ?」としか答えられないことが多い。追い打ちをかけるように「ねえ,面白かった?」と聞かれると,なぜか答えられない自分に腹が立ったりする。

ドラゴンアッシュ (5/11(金)22:03)
 大予備の授業でつい調子に乗り,ドラゴンアッシュと相田みつを同列に並べて悪口を滔々と述べてしまう。さっそく抗議メールが約1通殺到する。だいたいこんな内容。
  • ノリで聴いてるんだからいいじゃないスか。
  • 先生大人げないっすよ。
  • そのうちボコられますよ。
 ノリだからいいではないか,という反論には,そのノリがキライなんだ,という再反論で不毛にも対応できてしまうのだが,それでもよいのであろうか。ボコられるのはちょいとイヤだが(「私ボコられちゃうんですか,イヤですねえ」…プロレスリングノア・本田多聞風に),やはりドラゴンアッシュを聴く連中はそのレベルなんだ,と総括するが,それでもよいのであろうか。ほんとーに好きなのなら,悪口を述べるオヤジなど冷笑して黙殺しておけばよいものを,何を動揺しているのであろうか。
 ただし,大人げない,という批判は全面的に甘受する。少々反省しているが,人前に出て授業などすること自体,はなから大人げない行為である。ご海容ありたし。

 歴史を勉強するタノシミの一つに,今・ここにある自分と社会を相対化できる,ということがある。日本・日本人と自明のように語られるものは,実は全く曖昧なものであるし,伝統と称されるもの多くは,たかだか数十年の蓄積しかなかったりする。それらを指摘して,そら見たことかァ,と喜んでみせるのは実に大人げない行為ではある。それと同じようなものだ,とこじつけてしまうとこれまた大人げなし。どーでもいいや,ノリだよ,ノリ。

大人げない上塗り (5/12(土)21:09)
 やってみないまでも分かることと,やってみて初めて分かること・コメントできることというのが,画然とした境目はないもののやっぱりあって,後者についてロクに知りもしない者(そう思われる者含む)が利いたような口を利くと,へっ,と思い,その旨を指摘して不快感を引き起こしてみたくなるのである。まあ,自分の優越を確認してみたいというけちな自尊心のあらわれなのであろうが,「それが僕だもの」(早川義夫『この世で一番キレイなもの』)ゆえ,正直に書き留めておくことにする。

 例えば,数日前に新聞の投書欄で読んだ「お金では買えない物がある」という,10代後半少年の言葉。
 月に数千円のお小遣いの大半で携帯電話費を払い,駅ソバでも食って飢えをしのいでいるであろう少年に,お金の何が分かるというのであろうか。こういう分かったようなことは,お金で何でも実現してみようとして挫折した人間が口にしてこそ説得力がある。だから俺もよういわん。試してみる余裕もないし。
 ただ,この少年が思っているより,お金で何とかなってしまうことは資本主義社会においては実に多い。人命だって金に左右されるのだ。阪神・淡路大震災での犠牲者が低所得世帯が多い地域に集中していたことは周知の事実であるし,それは家屋にどれほどの投資が可能だったかによる。
 駆け出しの予備校講師だったころ,俺は実に貧乏であった。鳥取の予備校でいただいていた講義給は,今の実に7分の1であった。今は週に2冊買っているプロレス雑誌も1冊しか買えなかった。実に情けない。経済的余裕がないと精神的余裕が失われるのは,俺に限って言えば間違いないことで,だから「お金では買えない物がある」と言い切る勇気はとてもない。お金があれば精神的余裕は少なくとも購えるし,それがないと俺は俺でいられなくなるかもしれないのだ。
 もっとも,この少年の直感はおそらく正しいだろう。金で買えないものは,あるに違いない。しかし,金で人の心を,女の愛を,その他諸々の物を買おうとして失敗した後にこそ,この言葉は似合うだろう。それを伝えようとする際には,凄み,のようなものが必要なんだろう。若手のブルーズ歌手が弾くセブンスコードと,70歳を超えるそれが弾くものは,同じ弦の押さえ方でも違う音がする。

 育児経験のないパラサイト若造が言う「最近の親はなってない」説も同様。あー,確かに俺はなってないよ。でも君がそれを言っちゃいけないよ。つーか,俺は聞かねえよ。

 もちろん,凄みってのは年齢じゃないよ。アゲインストザシニックのアキコさんなんか,18でも凄みプンプンだから。

 相田みつをドラゴンアッシュに感じるのは,そういった凄みのなさである。喩えて言うなら,ご近所を20分ほど散歩してきただけで宇宙全体を理解したと思いこんで,へたくそな字で下らない教訓もどきを描いたり,腑抜けたような音を出すから腹が立つのだ。

 ……本来なら歌詞を引用してドラゴンアッシュをこき下ろすところなのだが,CDなどとっくに捨ててしまったので正確な引用はできない。が,「共闘してくれるキミたちがいる」とかいう歌詞には心底呆れ果てた。「共闘」という言葉が,これほど情けなく響いてくる歌もまたとあるまい。

 自分でも大人げない気がしてきたので,今日はここまで。

自転車 (5/12(土)22:55)
 いやー,俺の息子はすげえよ。

 麦人の幼児用自転車の補助輪を外して,コマなし自転車の練習を始めた。俺はかつて1週間以上かかってコマなしに乗れるようになった(阿久沢は2ヶ月)ので,まあ麦人もそのくらいはかかるだろうから,やる気を持続させようと思い,「コマなし,乗れるようなったら新しいの買ってやるよ」と,目の前にニンジンをぶら下げる。練習場所は近所の東芝支社前の広場だ。
 …1時間かからないうちに乗りこなした。最初こそフラフラ,ガシャガシャこけていたものの,半泣き,ほおに涙の轍をくっきりつけたままこぎ続け,100メートル以上ノンストップですいすい走る。この息子はどうも運動神経がイイ。とりわけ,バランスが要求されるものに強い。三半規管がステキなのか?

 ちょっと予想外だったが,約束なので,明日,お兄ちゃん用のかっこいい自転車を買いに行くことにする。変速付きのマシンを狙っているようである。

 夜中,「眠れない」と言って起きてくる麦人。「今日まで乗ってた赤い自転車,もうさようならだから,悲しくなって眠れなくなったの」と。

重松清・佐々木幸綱 (5/14(月)2:14)
 何日か前に新聞に載っていた重松清のインタビューが面白かったので記録。重松は俺の1歳年上。
 おやじの世代は,勝ち方,幸せになる方法を一生懸命提示した。テレビを買ったり,クーラーをつけたり。でも親の勝っている姿から学ばせようと思っても,今は難しい。いっそ負け方を教えちゃおうか。今,負けたことに負けてしまう子供が多いから。

 僕たち高度成長期に生きてきた人間はね,思い通りになるということをどんどん獲得してきた。その分,僕も含めて思い通りにならないことに対してもろい。子供が思い通り寝てくれないだけでカッとなる。思い通りにならないことに弱い親と,負けに弱い子供。その組み合わせだと思うんだよ,今は。

 止まって動かない不動のお父さんってかっこいいと思うけれど,不動のものって一番,波に弱いんだよね。
 俺は育児に関しては割と楽観的というか無責任で,俺の子供なんだから何とかなるやろ,と無根拠に考えていた。阿久沢のお義父さんに父親の心構えを問われ,「親はなくとも子は育つ」と答えて不興を買ったのも,つまらない質問にはつまらない答えをしてやろうと思っただけではなく,本気でそう思っているからであった。しかし重松のインタビューを読んでみると,それも育児が思い通り行かないことに対するあらかじめの予防線であったか。

  父として幼き者は見上げ居り願くは金色の獅子とうつれよ  佐々木幸綱

なんて,かっこいいけど俺には絶対言えないなぁ。そんな父ちゃん,子供の前で屁もこけないし,ごろ寝もできないじゃん。だいたい,その時だけ金色の獅子に映ったって,すぐにメッキ剥がれるじゃんよ。あーそうか,俺は金髪だから,ひょっとすると誤解してくれるかな。
 最初っから,金色の獅子になることを拒否した俺(アンド,同世代の父親)。思い通りにならないことがわかっているなら,最初っから手は出さない。
 すまんなあ,こんな父ちゃんでなあ。

喫茶店 (5/15(火)0:05)
 中学生の頃からコーヒー中毒である。しかし,学生時代は自分の部屋でコーヒーを淹れればタダ同然のものを,何で300円も400円も払って喫茶店で飲まなければいけないのか全く理解できず,というか,理解していたら財布が持たないので,デート以外で喫茶店に入ったことなどない。そして懇ろになってしまえば,元来出不精の俺は,自宅でメシ食ったりお茶を飲んだりするので喫茶店にも行かなかったのである。阿久沢は未だに,「何度も京都に遊びに行ったのに,どこにも連れて行ってくれなかった」と文句を言う。セックスしてたんだからしょうがねえだろ。

 だから,喫茶店に通うようになったのほんとにここ10年くらいのことだ。そして,CATV常時接続にした昨年9月からは,ついネットしてしまって自宅にいると読書もできない状態となり,喫茶店はなくてはならない存在となった。旅行に行っても,最初に探すのは居心地の良さそうな喫茶店である。

 今までお世話になった喫茶店の中で,絶対的にステキだと思っているのが2ヶ所あって,それは
  • 喫茶MG(松江市)
  • カミヤ(京都市)
である。この2軒に共通しているのは,
  • 珈琲はじめ,メニューはすべておいしい。
  • テーブルや椅子は古く,所々スプリングが飛び出したりガムテープが貼ってある。
  • 調度品やポスターが周囲との調和をあまり考えずに置かれたり貼られたりしている。
  • 照明は明るくも暗くもない。もう少し明るいと読書には最適,という程度。
という諸点で,要するに妙に落ち着く。何かしていてもしていなくても,平等に時間が流れていく。

 (喫茶MG,産経新聞に紹介されたようです。ここ。)

 神戸あたりのこぎれいなカフェだと,注文したときや注文した者が運ばれてくるときに,「スミマセン,よろしくお願いします…」ってしゃちこばってしまうのだが,この2軒に関してはその心配はいらない。カミヤなら,ジャンボショートケーキがテーブルに置かれた瞬間に横倒しになろうと,全く違和感なしである。

 きれいな店はたくさんあるから,落ち着く喫茶店が欲しい。ちょっと薄暗くて,清潔なんだけど雑然としていて,マンガとか雑誌とかが積まれていて,珈琲がおいしくて,壁にはいろんなポスターがべたべた貼ってある喫茶店がいい。そしてMGのあっちゃんみたいに,人なつこいマスターがにこにこしていると最高にシアワセだ。

 今住んでいるあたりには,そういう店はまだ見つからない。スターバックスなんかが意外に落ち着くのは最近発見したけど。

東大寺南大門金剛力士像 (5/16(水)2:12)
 隣地でマンション建設中の腐れゼネコン=新井組がまたしても大チョンボを二連発でかましたので,取りあえず現場に乗り込んで怒りまくる。

 一つ。日曜日は作業全休日とする工事協定書を交わしているにもかかわらず,大量に職人を入れて作業を行った。それも2週連続で。「音のでない工事なら問題ないかと思いまして…」などとヌカすので,国語辞典片手に“全休”の意味について授業をしてやる。ついでに言うと,大きな音を出しながら作業していた。

 二つ。同じく工事協定書で,作業に関係する車両はうちのマンションの前を通行してはいけないことになっているのだが,これに違反し,あまつさえ電柱にぶつかる。たまたま俺が見かけて新井組の事務所に電話で抗議している最中に,その車は逃走。

 「お前らゼネコンとしての管理能力ゼロやな。身の危険を感じるから,根本的に態度を改めない限り,作業阻止行動に出る。ゴメンナサイ,とか,以後気をつけます,ではもう済まない段階である。早い話,金持って詫び入れに来い」と,10人ほどのギャラリー(近隣住民6・作業員4)に囲まれる中で申し渡す。

 夜,近所のお好み焼き屋のおやじさんと阻止行動について密談。もし俺が威力業務妨害罪でパクられたさいには,差し入れ等よろしくお願いいたしますです,ミナサマ。

文人の靴を洗う (5/17(木)11:04)
 子供たちの足があまりにも臭いので,靴を洗ってやる。風呂場で古い歯ブラシで,ていねいに脂や土埃を掻きだして,きれいにしてやった。

 しかし。新品くらいにきれいにしてやった二人の靴を玄関に並べて置いたら,文人が見つけて怒り出す。「ふーちゃんのくつ,白くなっちゃった!白くなっちゃった!うあー!」と。
 文人の靴は,赤地にポケットモンスターの絵柄がついており,サイドの部分が白いゴムになっている。洗う前はその白いゴムの部分に土がこびりついてで茶色になっていたのを,俺が風呂場で歯ブラシで擦って落としてやったのだ。それが気に入らないらしい。彼にとって,その部分は茶色でなければならなかったのだ。その部分が茶色いのが,自分の靴だったのだ。

 「白いのはいやだ,はかないはかない!」と玄関に座り込んで泣く文人。俺も文人くらいのとき,道で拾った段ボールの切れ端を母親に捨てられてしまって泣いたのを思い出した。あの形と色が好きだったのに,と。
 「ごめんね,最初は白かったんだよ。そのうちまた茶色くなるからね」と,一生懸命説明するが,なかなか怒りを解かない文人。確かに悪いのは俺である。が,汚れたものを洗い,ゴミに見えるものを捨てるのが親の,オトナの仕事なのだ。これからも,よかれと思ってしたことが,子供たちを悲しませることはたくさんあるに違いない。麦人が文人が泣くたびに,ごめん,というしかないのだろう。

 今日,文人のお気に入りの縞模様シャツを洗濯しようとしたら,文人がつかんで離さない。「だめ。しまがとれて白くなっちゃうから」だそうだ。文人を保育園に送り込んでから洗濯。

今日一日 (5/18(金)23:56)
 関西文理へ仕事へ行く前に,JR京都駅アバンティ地下珈琲館で300円のブレンドコーヒーでしばしの間まったり。20代前半と思われる店員さんが仕事をしながら,ひっきりなしに大学のこととか,彼氏彼女のこととか,休日のことをおしゃべりしているのだが,それが耳障りにならない不思議な店である。小鳥のさえずりのよう。

 精算する際,レジ横の日めくり標語に目がいく。「私は今日一日,清潔なダスター,ふきあげタオルを使う」。なんだか困ってしまう。妙に頭の隅にこびりつく標語である。

 「今日一日…」ということは,清潔なものを使うのは今日だけか?そして,今日は清潔な布巾を使うことしか念頭にないというのか?今日一日は,おいしいコーヒーは淹れてもらえないのか?
 これって誓いの言葉だよね。誰に誓ってるの?自分?店長?客?社長?うわー,誠実と屈服と従順がレジの周囲をさまよっている。
 それに,誓いの言葉は自分で考えるもので,こういう風に外から与えられるもんじゃないでしょう?小学校の「今週の目標」だって,「廊下を走らないようにしましょう」という呼びかけだったよ。

 明日は一日,何をするんだろう。気になる。

 そうそう,火曜日のイタメシ屋は「よく働くためによく遊びましょう」だった。どこまで大きなお世話やさん。

続・今日一日 (5/19(土)1:06)
 自分でも誓いの言葉を考えてみた。

 「私は今日一日,チョークを無駄にしない」
 「私は今日一日,電車でお年寄りに席を譲る」
 「私は今日一日,ネットにつなぐ時間を極力短くする」
 「私は今日一日,メールや掲示板のレスを書く」
 「私は今日一日,健康と交通安全に気をつける」
 「私は今日一日,チューニングの合ったギターを弾く」
 「私は今日一日,子供の足が臭くてもガマンする」
 「私は今日一日,ミニスカートの女の子がいても脚を見ない」
 「私は今日一日,ブラジャーが透けている女の子がいても胸を見ない」
 「私は今日一日,原稿の締め切りを遅らせない」
 「私は今日一日,妻の機嫌を損ねない」
 「私は今日一日,生徒が授業中うるさくしたら注意する」
 「私は今日一日,肉ばかりではなく野菜も食べる」

 ようやく分かった。「今日一日」という部分にものすごい無理があるのだ。

ピンクのキャミソール (5/20(日)2:26)
 ユニクロで文人がピンクのキャミソールを買う。これじゃなきゃいやなのと言って,床に寝そべる。月曜日から保育園に着ていくという…。

 がんばれがんばれ,文人。君にもいつか,世間や人の目を少しは気にする日が訪れてしまうだろう。その日まで,へらへら笑って着たいものを着ていればいい。
 昨日,ユニクロで父ちゃんと母ちゃんが君に送った「他のにしようよ…」という視線も,君の「男」としてのジェンダー形成に一役買ってしまっただろう。それが,この地上で楽に生きていくためには仕方のない振る舞いではあったとしても,ほんの少しは罪悪感を感じていたのだ,ということを書きとどめておこう。

お見合い (5/22(火)1:46)
 もろもろの原稿の締め切りが週末に重なり,しかも原稿を書いている以上の時間をネットサーフィンに費やして2日間で3時間ほどしか寝ていない。自業自得と顔に紙でも貼られたような気分で,意識を半分とばしながら7時間講義する。風呂上がりのペプシコーラ。コーラなんて,年に1回飲むか飲まないかなんだけど,こういうときはおいしいね。

 昨日は,大学に合格してご近所に越してきたユリさん来宅。
 来年麦人は小学生になるが,共働きジジババなしの我が家に生まれた定めで,学童保育のお世話にならねばならぬ。ところが学童保育は5時までなので,俺か阿久沢が帰ってくるまでの2時間ほど,麦人は一人になってしまう。そこで週に何回か,ユリさんに来てもらい,宿題でもみていていただくのだ。ユリさんも学童保育出身なので,小学生のクソガキの扱い方は慣れている様子。昨日は,麦人と初のお見合いであった。

 昼前から阿久沢・麦人・文人は須磨海岸へ潮干狩りに行き,5時には帰るとの約束に1時間遅刻して帰宅。家に帰ればおねえちゃんが来てくれているとの情報を得ている麦人は,にやにやしながら上半身裸で,半分踊るようにしてユリさんが待っているリビングに駆け込んでくる。「こんにちは,とだむぎとです」と,自己紹介もそつなくこなす。にやにや笑いが止まらず,照れ隠しに俺の膝に乗ったり肩によじのぼったりする麦人。子供ムカデも小さいながらムカデの凄みを持ち,子供ライオンもがおうと吠えるのと同じように,あんなに小さくても,若くてきれいなおねえちゃんが大好きなのだ。

 続いて文人登場。自動車の中で横になって寝ていたため,腕にシートの跡がついており,それに衝撃を受けた様子。「おててがしわしわになっちゃった!」と大泣きしながらリビングに突入。汗と塩水でどろどろの服(ピンクのキャミソール)を脱がせてやろうとするが,さらに絶叫泣きに移行。手がつけられなくなる。これ以上はあり得ないというほどの鮮烈デビューを飾った。

 ユリさんとベランダに出て,何やら話し込んでいる麦人。後で聞くと,オジギソウのさわり方や,水鉄砲の仕組みについて延々説明していたらしい。自分のおもちゃについてあれこれ解説するのが,麦人の最高の歓迎の仕方なのだ。辛抱強く聞いてくれているユリさん。安心感を感じさせる人である。

 いつか麦人が大きくなって,幼かったとき自分を愛してくれた人々を思い出すことがあるだろう。祖父母や,保育園の先生や,近所のおばさんたち,マンションの管理人さん,向かいの酒屋さん,すじモダン屋さん。その数は,多ければ多い方がいい。そして,ユリさんもその中に加わるのだろう。キレイでいいにおいがするおねえさんがいてくれる小学生時代。我が子ながらウラヤマシイぞ。

純愛主義者同盟 (5/22(火)1:49)
 学生時代に書いた純愛主義者同盟のビラ原版を発見。自分でも,こんなの俺が書いていたのかよ,というほどステキなものもあるので,打ち込んでサイトで公開することに決定。しばし待たれい。

デュエル! (5/23(水)3:37)
 何故か俺は夢の中で遊戯王カードゲームをやっている。「俺のターン!ブラックマジシャンを攻撃表示!さらにカードを1枚場に伏せてターン終了だ!」。全身ガラスでできたみたいな敵モンスターがバトルを仕掛けてくる。「かかったな。トラップカード発動!」。ブラックマジシャンの足がグイーンと伸びて,敵モンスターを撃破!したのはよいが,なぜか俺の足が冷たい。しかもぬめぬめと不愉快な感じだ。敵モンスターのガラスの身体が冷たいからなのか?それとも,敵の魔法カードが発動しているのか?

 何のことはない。麦人が寝小便を垂れており,俺はシーツの水たまり(2ヶ所のうち1ヶ所)に足を突っ込んだのである。一気に目が覚めた。麦人は眠ったままパンツとパジャマを脱いでおり,尻丸出しでうつぶせて眠りこけている。その尻を軽く平手打ちして復讐。

 仰向けになって眠りこけている文人を強引にトイレに連れて行く。身をよじって抵抗する文人を押さえつけ,漏らす前に強引に「水抜き」。

シアワセ (5/24(木)11:44)
 昨年の生徒さんが北予備に来て,アンリシャルパンティエのケーキを下さいました。家に帰ると阿久沢が,大丸のロールケーキを買って来ていました。子供には虫歯になるからなと念を押して,むしむしとシアワセにまみれています。

 子供の頃,蜂蜜の瓶に溺れて死んでいるアリを見て,すげえシアワセな形をしているな,と思いました。

あこがれの地へ (5/24(木)11:59)
 何となく,人生そろそろ真ん中当たりにさしかかったのかなあと思い,どこから来てどこへ往くのかなあ,と,そんなことさえ誰も分かっていないことに改めて愕然としてみたり。

 一番わかりやすくて納得できるのは,「嘗て居たところに還って往く」という物言いだろう。
ああ 祭りもいつか いつか終わる
ああ 涙もいつか 海へ還る
ああ 祭りもきっと きっと終わる
ああ 心もきっと ヤマへ還る
                          上々颱風『ものみな歌に始まる』
 こういう物言いが俺にも一定の感動と納得をもたらすのは間違いないが,2つの点でどうしても帰依できない。

 まず,「嘗て居たところ」は不動・不変のものだという前提がここにはあるが,これは生まれ育ったふるさとを持っている者だけに許される前提である。俺の出生地は両親のふるさとである静岡県だが,そこに住んだことは一度もない。また,育った神奈川県鎌倉市は父が通勤の便宜で住宅を買い求めたというだけの場所で,両親がこの世を去った後,俺が再び鎌倉に住むことはまず考えられない。俺に「嘗て居たところ」は,少なくとも物理的にはないのである。

 そして,これって天皇制に帰依する気持ちってのと似ているんじゃないかというのが,俺に警戒感と「なんでぃ,だっせーの」という感情を抱かせる。万世一系とは永遠に続く時間の謂いであり,たかだか数十年の時間しか持たない個体は,万世一系の赤子となり,万世一系に奉仕し,その永遠の時間の流れにとけ込んでいくことで永遠の命を保障され,安堵する。そのためのチャチな装置が靖国神社とか日の丸・君が代というやつであろう。よくできたお話であることは認めるが,現代人たる俺にはうさんくさいだけの代物である。そもそも天皇家が万世一系じゃないんだから,ほんとはお話にもならない。

 きっと俺は,どこへも還っていかない。いけない。

 いいなあ,たぶんこうなんだろうなあ,と思ったのは,この歌だ。
あこがれの あこがれの あこがれの
あの地へ
あこがれの あこがれの あこがれの
夢に見たとこへ
                          BO GUMBOS『あこがれの地へ』
 曲の終わりでどんとが叫んでいる。みんな,あこがれの地へいこうぜ,と。おう,俺も行くぜ。できる限り遠く遠く。速く速く,な。

昨日買った本 (5/26(土)4:45)
『Quick Japan No.30』(太田出版)
友部正人『ちんちくりん』(ビレッジプレス)

 後者は友部正人の1970年代のエッセイ集。長らく絶版だったものが,出版社を代えて復活である。高校生の時,近所の本屋に注文したのに手に入らなかった。なんかウレシイ。友部正人の歌も文章も俺には貴重なものである。友部正人は,コノ言葉とアノ言葉を組み合わせたり,または隣同志に置いてアンナ声で歌うと,予想もしなかった風景がそこに現れるということを最初に教えてくれた。
 自分を語るとき,自分の感情を動かしたものを語るときの言葉の選び方について,俺は友部正人の影響を受けている。自称・友部チルドレンである。
彼女に必要なのは,エルマーなのかもしれない。こんないじわるなどうぶつなのではないかも知れない。どうぶつだって,友だちになりたがっているのには違いないのだが。彼女と一緒に大空を飛んでくれる人がいたら,僕は彼女を彼と行かせてやるだろうか。彼女のいなくなった暮らしの不便さは,河を渡るときの不便さではなく,大空をかける夢がなくなったことだと気づいても。
                                       『生活が好きになった』
 『ちんちくりん』は20代に書かれた文章だけあって,今の友部の文章よりもうちょっと生々しく,ざらざらしている。その分だけ,友部の姿が濃く感じられる。

 英語を母国語とせず,またロクに勉強もしなかった俺には,ボブ・ディランがちゃんと聴こえてくることはひょっとするとないのかもしれない。でも,友部正人や友川かずきがいるからイイんだ。

未熟者暴走する (5/26(土)5:28)
 関西文理で,授業中他の科目を自習していた生徒を教室外に追放。

 俺は予備校というものを,大学受験をクリアするのに必要な知識および技術を効率的に伝える場であると考えている。それ以上でもそれ以下でもない。それを妨害する要素は,できる限り教室から排除するのも仕事のうちだ。
 だから,まず絶対的に排除しなくてはいけないものは教室内の私語・携帯着信音と,廊下の騒音である。
 さらに,俺の講義リズムを乱す要素も,可能な限り排除したい。目の前で居眠りされるのも相当に調子が狂うのだが,眠気には何人も対抗できないし,大きな音がでるわけでもないのでこれは許容。
 授業中のガムやジュース,これは問題ない。むしろ,眠気を飛ばして授業に集中できるのであれば,奨励すべきである。

 他科目自習も,音が出ない限りは誰に迷惑をかけるわけでもなく,許容しても良い気もするのだが,そこは単純に俺の人間が未熟なためにプライドが傷つくのだ。他科目の教材を広げているのが目にはいると,何でコイツこんなことしてんにゃろ,自習したいなら自習室行けよ,とか頭の中がウズ巻いて,ただでさえ超速のしゃべりにさらに加速がかかったり,説明の順番が変わったり飛ばしたりすることになるのである。
 一義的には俺の未熟さに由来するのだが,俺の調子が狂うと結果として他の生徒さんに迷惑かかるし,自習している生徒さんを追放したところで,特に何か権利を奪うことにもならないから,今日は退去してもらうことにした。
 この講師はこういう未熟なヤツなんだ,ということを生徒さんたちに早めに分かってもらい,授業の受け方を知ってもらうためにも,この方がいいだろう。

 自習するなとは言わない。分からないように,こっそりやってくれ。

岡本駅周辺/金曜の夜 (5/26(土)5:49)
 予備校のO先生,Iさん,Kさん,Fさんと三宮で飲み。

 帰り道の11時,岡本駅あたりの若い人たちが立ったり座ったりして遊んでいるのが新鮮。銀行の前でスケボーを脇に置いて菓子パンをかじっている男の子3人&女の子2人。中学生?金髪または茶髪で,上下ともウィンドブレーカーに身を包んでいる。みんな身体が小さい。もっとウマイもん食えよ。それで,夜は早く寝ないとダメだよ。脇をバカでかい真っ白いふわふわ犬を連れた60歳くらいの男性が通り過ぎようとする。女の子が犬にパンをあげて撫でくり回したので,犬はもう喜んじゃって,その場に座り込んでシッポを振って動こうともしない。ますます犬をかわいがる女の子。こんな連中と関わりになりたくないよ,と露骨に表情に浮かべて犬を引っ張るが動かない男性。

 コンビニ前の駐車場で菓子袋をいくつも広げ,車座になって宴会をする10代無職少年?たち。その横でメンコをするヤンママ&ヤンパパ&4歳くらいの男の子。

 妙にウレシイ気分になり,もしかすると存在したのかも知れないもう一人の俺をこっそり仲間に入れてもらう想像をしてみる。金曜の夜は,皆さんにお任せします,と家路を急ぐ俺。

高山敗れる (5/28(月)0:10)
 この週末は「オットセイ古文書館」にアップするために昔書いた文章を打ち直していた。一つは13年前,学生だったときに書いたビラ。もう一枚は2年ほど前,松江に住んでいた頃,通いつけていた喫茶店の30周年記念誌に書かせてもらったものだ。

 10年の間に,もちろん文体や言葉遣いはかなり変化している。そして,昔書いた文章は潔く,そしてせっかちだなあ,と思った。

 学生時代,「お前はどういう立場に立つんだ?」ということを他人にも言ったし,他人からも言われた。おおむね,ある状況や問題に対して,誰の味方に立つのか,とか,その問題を解決しようと思っているのかいないのか,という意味で使っていた。大雑把に言えば,お前はお前のいる世界を肯定するのか否定するのか,という問いであった。そしてそのころの俺は,迷わず世界を否定する側に立っているつもりだった。徹底的な否定,それこそが世界に対する愛であると。「これは挑戦状であり,ラブレターである!」,いずれ「オットセイ古文書館」に収録することになるビラに書いた,俺が自分でも気に入っていたフレーズである。

 きっと俺は,世界を納得したかったのだ。なぜ世界中,これほどの不正義が,差別が,理不尽な暴力がまかりとおっているのか。世界を抱きしめるには,一度世界を殺してしまわなくてはならない。それをせずには,俺は俺でいられない。そんな気分が,昔書いたビラには充ち満ちている。

 今は?
 こっちから殺しに行かなくても,世界の方が勝手に殺しにやってきてくれるよ。ジャイアント馬場の言葉を聞け。「リングの中央に立て。そうすれば相手が自分をぐるぐる回り始める。廻りを回っている方が,観客の目には弱く映るんだ。真ん中に立っていれば,強く見える」。

 ガチで世界と殺し合いをし続けるのは,辛いのかもな。
 PRIDEより純プロレスの方が,いいもんな。

 俺は,世界に狎れたのかも知れない。世界の訳わからなさを,自分の中で飼い馴らしたのかもしれない。今,俺と共にあるのは,煮て食おうが焼いて食おうが,はたまた逆立ちしようが,俺は俺以外にはならないし,隠せない俺自身はどうやったって立ち現れてくるだろう,という開き直りである。「人は見えた通りのものでしかない」(早川義夫『いつか』)。

 もう一度来い!世界。俺は誰の挑戦でも受ける!

日曜の夜のこと (5/29(火)1:24)
 マンション管理組合総会の打ち上げ。
 我がマンションは58戸と比較的小規模なので,住民同士がたいてい顔見知りである。かつ,入居当時から現在に至るまで,事業主にここ直せ,あっちも直せと要求し続けているので,管理組合活動が割と活発なのだ。

 みんな仕事を持っているから,管理組合の話題が一段落すればお互いの仕事の話になるのは自然な流れだし,自分を語るのは自分が普段していること関心あることを通じてのみ可能だ,というのも重々承知しているのだが。

 「流通の新しいシステムを考案して…工事現場に資材を届けるだけじゃなくて,廃材を回収して持って帰るのを考え出したのは私なんですよ。…特許とか実用新案取れば,億という仕事になりますから…そうすれば,何百人という社員を食わせることができますから…大阪でそういうことを考えられるのは私ぐらいしかいないんですよ」「管理組合もそうですよ!みんながプラスになってハッピーでないと!」

 彼が酒に酔っているのを差し引いても,こういう話を隣の席で30分以上聞かされるのは相当に辛い。
 何でこんなに苦痛なのかと,彼の話を聞きながらつらつら考えていた。
 彼は,自分を知ってほしいのではなく,自分の凄さを知ってほしいのだ。今日の総会で段取りが悪く,壇上で集中砲火を食らって傷ついたプライドをここで回復したいのであろうか。

 凄いことは,凄いんだよ,と口にしても伝わらない。むしろ,昨日まで台湾出張で,一日15時間,防塵服に身を包んで半導体工場で機械のプログラミングをしていた,工場内は気温が10度台なのに,外に出ると太陽が真上から差していて影が出来ないほどだ,という別の人の仕事話が凄かった。俺まで腰が痛くなり,気温差に熱と鼻水が出そうだった。

 自分の有能さをアピールしたいという気持ちはもちろん俺にもある。でも俺は,それをみっともないことだと考えているようだ。それを彼が露骨かつ下手糞にやったので,自分の汚さ・みっともなさをも目の前に突きつけられた気分になったのかも知れない。

 もちろん,温厚でいい人なんだ。だからこそなんだ。

 「はい,はい」「なるほど,なるほど」と相づちを打つだけの俺であった。「凄いですね」と,なぜ言えなかったんだろう。彼はきっと,それを望んでいたのだろう。俺はどうしてこう寛容でないのだろうか。感じたことが態度に出てしまうのであろうか。

今日買った本とCD (5/29(火)22:54)
長部日出男『天皇はどこから来たか』(新潮文庫)

友部正人『読みかけの本』
ボ・ガンボス『ずいきの涙』
ボ・ガンボス『GO』
ボ・ガンボス『JUNGLE GUMBO』
ボ・ガンボス『ULTRAVELIN' ELEPHANT GUMBO』

 しあわせー。
 3日くらい,仕事部屋から一歩も出ずに,ウタについて書いてみたいぞ。
 早く独居老人になりたい。

30代半ば (5/31(木)4:32)
 江戸アケミ38歳。佐藤伸治33歳。どんと37歳。ジョン・レノン40歳。ボブ・マーリー36歳。

 30代半ばってのは,意外にあっち側に往ってしまう季節なんだなあ。

 というか,それでも,ま,いっか,と許容してしまう気持ちが俺の中にある。これから楽しいことはまだまだあるだろうし,やらなきゃいけないこともありそうな気がするけど,これまで十分楽しかったし,それなりにやることやってきたから。まだ気力・体力が残っている間にあっち側に往ってしまったとしても,まあ,それはそれで納得,みたいな。やり残したことはもちろんたくさんあるんだけど,やり残したことで完成されている,今なら折り合いをつけて往ってしまえるよ,みたいな?

 現実問題として妻子を抱えているので,そこまで潔くはなれないのだが。阿久沢との間で死を話題にすると,文人はよく分からないらしくニヤニヤしているが,麦人はふっと見ると涙ぐんでいたりする。しかしそれはそれ,別問題だ。

 そんなわけで,心中相手募集(半嘘)。

ぼーっ (5/31(木)4:55)
 仕事が忙しい。とは言っても,新聞社時代に比べれば多寡が知れている。でも忙しい。原稿の締め切りが週に2回くらいある。

 俺の持つシステムリソースははなはだ貧弱なモノであるらしく,仕事が今みたいに立て込んでくると,あれこれ道草を食うように考えをめぐらしたり,多少なりとも創作じみた文章を書く余裕がなくなってくる。これは体力が乏しいせいもあるかもしれない。心の遊びスペースみたいなものが狭くなってきている。まずい。

 そういう情けない状態なので,今週の『SPA!』の特集「あの超多忙人たちの時間&情報管理術」みたいな記事を読むと,宇宙人のことのように思える。「エンジンの回転数はギリギリまで上げたほうがよく回る。起きている時間のほとんどをギリギリの力で走っています」とか「電車を待つ1分も無駄にしない」とか。
 何でこの人たちは,空いている時間を何か有益なモノで埋めていないと気が済まないのだろう。そこまでして,何をしたいのだろう。もっとも,そこまでして何かをしたい,と思えるのはとても羨ましいのだけど。

 空いている時間があると,心を宙に舞わせてぼーっとしてしまう俺。むしろそういう時間を心安らかに確保するために,働いて稼いでいるのだ,としか思えない。働いて稼いで何かの役に立つためにぼーっと休んでるんじゃないのだ。ぼーっとするために生きてるんだ。文句あるか,ファッキン資本主義め。

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