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おっとせい写真日記へ

  
2010/02/07 [日]   

■日曜だが仕事があり、帰りに梅田のHEP HALLにて「忌野清志郎の世界」 http://www.lapnet.jp/eventinfo/special/lm/kiyoshiro/ を見る。

■やはり心に残るのは清志郎の描いた絵だ。
 俺の知る限り、佳いミュージシャンは例外なく佳い絵を描く。きっと、絵を描ける人というのは、自分が住みたい世界、往きたい世界をトータルに心の中に思い描いているんだろう。そのトータルなイメージは、絵でも文章でも歌でも伝えられるものなのだが、中でもよりトータルに伝えきれるのは、絵、というジャンルなのではないかと思う。
 思いつきレベルでいえばこんなことだ。歌や音楽、文章は、受け取るのに「時間」の経過を必要とする。ある歌を聴き始めた戸田公人Aと、聴き終えた戸田公人Bは、「時間」が経過した分、同じ人間とはいえない。同じ人間でないAとBに何かを伝えても、何かが失われてしまう。
 絵の場合も「時間」の経過がないとは言わないが、ほぼ一瞬にしてそこに描かれた世界を感じ取ることが可能である。それゆえ、絵が他のジャンルよりよりトータルな世界や宇宙を伝えることができるのであり、そのような絵を描ける人は、そういう世界や宇宙を抱いていると言えるのだ。

■忌野清志郎は、確かにトータルな世界と宇宙を自分の中に描き、細部に至るまで造形し着色し、歌の形で、絵の形で我々に見せてくれた。
 数多のミュージシャンが反戦平和を口にするが、そんな凡百のミュージシャンと忌野清志郎が決定的に違うのは、清志郎は世界の全ての人間が平和に暮らす世界を全体的かつ細部に至るまでイメージしていたことだ。清志郎の絵を見て俺はそれを確信した。そんなことができたのは、忌野清志郎とジョン・レノンくらいのものだ。
 ジョン・レノンは歌った。想像してごらん、国家なんてないと。ジョン・レノンにも、はっきり見えていたのだ。そして忌野清志郎はその歌を訳して歌った。僕らは薄着で笑っちゃう、ああ、笑っちゃう。そしてさらに歌う。君一人じゃない、ひとりぼっちじゃない、違う!
 忌野清志郎は言っているのだ。君もやってみろよ、と。君の住みたい世界、君の好きな人といっしょに住みたいと思う世界をトータルにイメージしてみろよ、と。

■だから、俺はやってみることにした。清志郎が渡そうとしたバトンの埃くらいは、俺が引き継ぐ。まずは絵を練習したい。


2010/02/05 [金]   

■ソウルフラワー・モノノケ・サミット@梅田シャングリラ。
 人は無から生じ無に帰っていく。そして、繰り返す。ブラックホールに消え、ホワイトホールから現れる。その、生と死を往還する速くて太い流れに、腰まで浸かってしまえば流されてしまうが、指先を浸すくらいならば、力を得ることができるのではないか。なべての宗教とはそういうものなのではないか。
 かつて江戸アケミは言った。「救われたいんだよ。でも宗教は嫌なんだよ。リズムでもって救われたいんだよ」。俺がライブハウスに足を運ぶ目的は、そういうことである。

■美空ひばりの『東京キッド』のカバーをやったのには驚いた。で、一つ発見。

  空を見たけりゃビルの屋根
  潜りたくなりゃマンホール
            美空ひばり『東京キッド』

わかった。

  東京ららばい
  地下がある
  ビルがある
            中原理恵『東京ららばい』

って、『東京キッド』の本歌取りじゃないか!やはり「地下がある」「ビルがある」の解釈が正しいのだ。

■伊丹英子はいいなあ。彼女が出演しているライブを見ると、伊丹英子=卑弥呼、中川敬=実務を司った男弟、の『魏志倭人伝』コンビを思う。歌ったり楽器弾いたりの実務は全部男にまかせて、女性は巫女性とカリスマ性で男をコントロールしていればいいのではないか。世界に意味を与える存在として。
 たまに、巫女性とカリスマ性に加えて実務能力も高い女性が現れることがある。ていうか、その気になれば実務なんて誰にでもできるのだ。こうなると男はやることがなくなり、ぼーっとしてしまうのである。

■朝青龍引退については、いろいろ考えている。
 今言えるのはこういうことだ。俺は、神レベルの横綱は一般人を殴り殺してもよいと考える。だって神なんだもの。問題は、朝青龍がそのレベルに達していたかどうかということだ。


2010/02/04 [木]   

■20年ぶりくらいにボブ・ディランの『戦争の親玉』(岡林信康訳詞)を歌ってみた。
 この歌、9割以上がEmのジャカジャカで、1小節半だけAmという極端にバランスの悪い2コードなのな。怒りと憎しみを歌うにはそれで十分ということか。

■仕事帰りに節分の太巻き寿司を8本買った。前の晩、息子どもに何本食べるか尋ねたら、「4本!」と無茶苦茶をいう。4本は無理でも、ひょっとすると3本は食べてしまうかもしれないと思い、(子ども3本×2)+(親1本×2)=8本という計算である。
 その旨、twitterを通じて妻に連絡したのだが、あいにく妻の携帯はバッテリーが切れていたらしく巻き寿司の件は伝わらず、妻も同じお店で太巻き寿司を6本買ってきた。
 計14本の太巻き寿司が食卓に転がる光景は凄惨で、恵方もクソもなくひたすら無言で頬張るしかない。明日の朝ご飯もお昼のお弁当も巻き寿司になりそうである。
 おいしいから別にいい。

■明日は梅田シャングリラ、ソウルフラワー・モノノケ・サミット!久しぶりに伊丹英子の巫女オーラを浴びるんだ!


2010/02/03 [水]   

■ここにきて長男の身長が急激に伸び、俺の眉毛のあたりに達した。父親超えが視野に入ってきた。次男も同様のペース、もしかするとそれ以上のペースで成長しており、このままでは、身長180センチ超の大男3人が狭い3LDKで犇めき合うということになる。考えたくもない。子ども手当、体の大きさ加算とかないかしらん。

■十数年前は、俺の膝につかまって、ちきちきと立つ練習をしていたのになあ。ふとんの上で、歌いながら手を叩くと、にこにこして2、3歩歩いて、ぱたん、と倒れていたのになあ。だっこだっこ、と、はるか下の方から、俺に向かって両手を差し出していたのになあ。

■twitter、使い方もおもしろさも少しわかってきたが、物思う呼吸が短くなりそうなのが気になる。自分の中で発酵させたり腐らせたりしてから外に出すモノの強烈さを見失わないようにすべきだ。
 とはいえ、俺程度の者が考えることなどtwitterで事足りてしまうのも事実。
http://twitter.com/otto_sei

■数週間前に読み終わった本。
本間健彦『高田渡と父・高田豊の「生活の柄」』(社会評論社)
→「孤高のフォークシンガー」「吟遊詩人」、どちらも高田渡にはそぐわない。渡さんにはたくさんの仲間がいたし、自作の詩はあまり歌わなかったはず。やはり、シンプルに「フォーク歌手」がしっくり来る。


2010/02/01 [月]   

■「胸チラを見ない男性は1人もいないことが判明」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=68&id=1094914
 ↑こういう、実証的でない断定的な物言いは断固として排除するのが俺の作風だが、俺自身が否定する材料たり得ないのが情けない。
 我が身をさらに振り返ってみる。短めのスカートの女性が腰掛けていると、太ももをつい見てしまう。夏とか、ローライズのジーンズの半ケツ部分も、やっぱり見てしまう。
 こういうことを率直に認められるのは、じじいになったメリットである。