松江市の宍道湖畔に“MG”という喫茶店がある。おいしいコーヒーと,ごはんと,あっちゃんと,落ち着く空間と時間がある。こういう喫茶店がある街はそれだけでステキだ。MGの開店30周年記念誌に書かせていただいた文章。

 僕には故郷がない。サラリーマンだった父は,たまたま通勤に便利なベッドタウンに家を買ったまでで,そこで十五間年育った僕は,両親がその地を去れば,おそらく二度と戻ることはない。だから僕は,その気になれば自分の故郷を自分で選ぶこともできるし,流浪の民であり続けることもできる。

 大学を卒業して就職したのはある新聞社だった。別に仕事は何でもよかったのだが,バブルの季節だったので,試験を受けたら通ってしまったのだ。ガラガラポンと初任地を松江支局と決められて,1990年4月に松江に来た。MGのことはフォークシンガーの豊田勇造さんに教えてもらっていたので,赴任直後から2年後に松江を離れるまで,2日に1回はお昼をいただいたり,コーヒーを飲みに行っていた。仕事はどうしても好きになれなかったので,適当にやっていた。遠からず辞めるつもりであった。

 松江は,スキだらけの街だと思う。下を見ながら歩くと楽しい。中心部を歩いていても,ちょっと路地に入ると舗装がしておらず,雨上がりには水たまりが残っている。土塀の下のところが少しだけ崩れかけていて,時の流れを感じさせる。民家の玄関先には気合いの入った植木鉢がおいてあるが,せっかくの花の上に猫がすわりこんでいたりする。思いもかけないところに川やお堀があるのはいいが,岸辺は雑草だらけで独特の湿気が立ち昇っている。松江ではなく安来の話だが,市役所の正面に掲げてある「21世紀まであと××日!」という電光掲示が数日間違っていたりもする。
 そのスキが妙に心地よかった。時間が止まっているかのような松江の街と出雲地方には,そんなエアポケットみたいなスキがたくさんあって,そのスキ間で過ごす時間,出会う人々がとても気持ちよかった。MG,劇団幻影舞台,鴻臚亭,大東町の須賀神社,島根半島の海岸,広瀬町や伯太町の県道沿いの風景…に流れていた空気と時間は,何か信頼に値するものがあった。

 実は,松江での最初の夜,アパートから見える灯の寂しさに,こりゃなんちゅうところに来たのか,と後悔した。なのに2年後,転勤が決まった夜,赴任した日からまったく増えもしない同じ灯を見て,無性に離れがたく感じている自分がいた。

 松江を故郷に選んでもいいかな,と思ったのはその時である。

 よそ者を受け入れようとしないこの地方の風土は十分わかっていたが,軽薄な孫悟空よろしく,雲の上から景色をつまみ食いして飛び去っていく,そんなマスコミ仕事を続けて行くよりマシだろうと思った。この街を愛した小泉八雲が,松江で最初に聞いたという下駄の音を,そのとき僕も聞いたような気がした。
 辞令が出ていたので転勤先の神戸には移ったが,裏で松江回帰の準備を進めていた。取材で知り合った橋南地区の小高い丘の上にある某ミッション系女子高校の先生が「国語の教師として来ないか」という話を持ってきてくれたので,これはいいと思い,新聞社にはさっさと辞表を出してしまった。ところが面接で,シスターである校長と理事長が,僕と妻が夫婦別姓にする便宜上入籍していないことを話題にし,「要するに同棲ということですね。困りましたね」などと言うので,「アダムが耕しイヴが紡いだ頃,戸籍などというものがあったのですか?イエス・キリストの父ちゃんは誰なんですか?」と宗教論争をふっかけてしまい,結果は×であった。まあ,あの学校ではたとえ教師になっていたとしても,いずれ上層部と大げんかをしたのは確実である。

 いうことで,松江を故郷にする計画は失敗に終わり,今日に至るまで僕は流浪の民である。流浪の日々の間に子供も2人生まれ,フットワークも重くなった。それでも僕は何度でも松江に来るだろうし,その度にMGに足を向けるに違いない。MGの空気を吸い,コーヒーを飲めば,松江を好きになった自分が間違っていなかったことを確かめられる。MGのビデオデッキの下に貼ってあるポスターの小泉八雲を見るたびに,そう思う。

 

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